幕末維新懐古談
猛火の中の私たち
高村光雲

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)大人《おとな》でも

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二、三十|間《けん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)しぶき[#「しぶき」に傍点]
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 私は十四の子供で、さして役には立たぬ。大人《おとな》でもこの猛火の中では働きようもない。私の師匠の東雲と、兄弟子の政吉と、私の父の兼松《かねまつ》(父は師匠の家と私とを心配して真先に手伝いに来ていました)、それに私と四人は駒形堂の方から追われて例の万年屋の前へ持ち出した荷物を卸し、此所《ここ》で、どうなることかと胸を轟《とどろ》かしている。火勢はいやが上に募って広小路をも一舐《ひとな》めにせん有様でありますから、師匠は一同に向い、
「とても、この勢いではこの辺も助かるまい。大事な物だけでも、川向うへ持って行こうじゃないか」というので、籠長持《かごながもち》に詰《つ》め込んである荷物を、政吉と父の兼松とが後先《あとさき》に担い、師匠は大きな風呂敷包みを背負《しょ》いました。
「幸吉《こうきち》、お前は暫《しばら》く此所で荷物の番をしていてくれ、俺《おれ》たちはまた引っ返して来るから」そういって三人は吾妻橋の方を差して出て行きました。幸吉というのは私のその時分の呼び名です。光蔵《みつぞう》という語音が呼びにくいので光《みつ》を幸《こう》に通わせて幸吉と呼ばれていました。

 出て行った三人は、二、三十|間《けん》ほども行くと、雷門際は荷物の山、人の波で、とても大変、籠長持など差し担いにして歩くことはおろか、風呂敷包み一つさえも身には附けられぬほどの大混雑、空身《からみ》でなければ身動きも出来ない。所詮《しょせん》は生命《いのち》さえも危《あぶ》ないという恐ろしい修羅場《しゅらじょう》になっておりますから「これでは、どうも仕方がない。生命あっての物種《ものだね》だ。何もかも抛《ほう》り出してしまえ」というので、父の兼松と政吉とは籠長持を投げ出してしまう。果ては人波に押され揉《も》まれしている中に三人は散々《ちりぢり》バラバラになってしまいました。

 万年屋の前に荷物の番を吩咐《いいつ》かって独《ひと》り取り残された私は、じっと残りの荷物の番をしておりました。子供心にも、師匠や親からいいつかった荷の番の責任を感じている上に、もう一度引っ返して来るから、といって出て行った言葉もあることとて一生懸命に荷物を守っておりました。
 すると、見る見る中《うち》に、両側の家は焼け落ちて、今にも万年屋の屋根を火先が舐めそうになって来る。と、火消しの一群が火の粉を蹴って駆け来り、その中の一人が、長梯子《ながはしご》を万年屋の大屋根の庇《ひさし》に掛けました。そうして、するすると屋根へ上って行きました。
「おい、お前、こんな所に何をまごまごしてるんだ」
 一人の火消しは私を見て怒鳴りました。
「私は荷物の番をしてるんだ」
 そういいますと、
「何、荷物の番をしてるんだ? 途方もない。ぐつぐつしてると、荷物より先に手前の生命《いのち》がないぞ、早く逃げろ、早く逃げろ」
 そう怒鳴りつけますが、さりとて、私は逃げ出すわけには行かない。師匠の預かり物の番をしているので、師匠や親が、もう一度|此所《ここ》へ帰って来るまでは、何がどうあろうと踏み止《とど》まろうと、火消しの怒鳴るのをも係《かま》わず、やはり荷物へ噛《かじ》り附いていました。
 すると、仕事師の一人が、突然《いきなり》、私を突き飛ばして、
「逃げなきゃ死んでしまうぞ。早く逃げろ」
と、恐ろしい見幕で叫びながら、また私を突き出してくれました。私は突き飛ばされたのだか、それが突き出してくれたのだか、そんなことも夢中で、ともかく自分の身体が荷物の側から大分離れた所へ弾《はじ》き出されていて、二度とは、もう荷物の側へも行けないので、とうとう断念《あきら》めて何処《どこ》かへ逃げて行こうと決心しました。
 しかし、逃げるにしても、何処へ逃げて行って好いか分りません。とにかく、師匠や親の行った方角へと心差して逃げ道を雷門方向に取りました。

 一方、私の父は、どうしたかというと、大混雑の中で、師匠や政吉を見失い、自分一人となると、さあ、子供のことが案じられて来ました。万年屋の前に荷物の番をさせて置いた悴《せがれ》の身の上が気遣《きづか》われて来ました。一念が子の上に及ぶと、兼松は顔の色が変り、必死となって人波を掻《か》き分け、元の道へ取って返しました。しかし、荷物の山と人波に遮られ、あがいても、百掻《もが》いても人の先へは出られない。気が急《せ》けば急くほど身が自由にならないので、これではいけないと、荷物の上へ躍《おど》り上がり、箪笥《たんす》、長持《ながもち》を踏み越え踏み越え、やっと、雷門の脇の大神宮《だいじんぐう》様の脇を潜《くぐ》り抜けて、心ばかりは万年屋指して飛び込んで来ましたが、やはり恐ろしい人波でニッチもサッチも行かないのでした。

 私は何時《いつ》の間《ま》にか、雷門の方を向いて人波の中を泳いでいました。泳いでいるといって好いか、揉み抜かれているといって好いか。人間と人間との間の板挟《いたばさ》みにされ、両脚《あし》は宙に浮いて身体が波の動揺のままにゆさぶられているのです。そのくせ、眼には昼よりも明るい一面の火の幕がハッキリと見え、人の顔と、真黒な頭の頂天のチョン髷《まげ》とが影絵のように映っている。そうしたままで、また良々《やや》暫く揉まれ抜いていると、ふと、百千の人の顔の中から、父兼松の顔を見附けました。ハッと思うと同時に、父の眼顔《めがお》に、私を見附けたという喜悦《よろこび》の表情の動くのを見ました。父は、口を開《あ》いて、何かを叫び、両手を上へ揚げて、一心不乱に私の方へ突進して来ようと焦燥《あせ》っている有様。私は私で、父を見附けると、ただ、もう、父の方へ、一本槍に進んで行こうと百掻《もが》いている。その間隔はたった十人か十五人位の人垣《ひとがき》によって押し隔てられているのですが、親も子の傍へ来ることが出来なければ、子も親の側へ寄って行くことも出来ない。心は矢竹《やたけ》にはやれどもわれ人ともに必死の場合とて、どうすることも出来ないのでした。

 しかし、私たち親子の一心が通ったものか、とにかく、親子は犇《ひし》と抱き合いました。
「もう大丈夫だ。俺が附いている」
 こう父が確《しっ》かりした声で、私を抱いていった時、私は、一生に、この時ほどうれしかったことはありません。私の父兼松は生粋《きっすい》の江戸ッ児で、身長《なり》こそは小さいが、火事なぞに掛けては、それはハシッコイ人物、……我子を両手に抱いたうれしさに勇気も百倍し、それから人波を押し割って元の道に引ッ返し、大神宮際の床店の所まで父は私の楯《たて》となって引き退いたのでありました。
 其所《そこ》で、父は、とある荷物の中から、一つの網戸を引っぱり出し、それを床店の屋根に掛けました。そうして、私の尻を押すようにして、私を屋根に上《のぼ》らせました(戸の桟《さん》を足場にして攀《よ》じ上る)。続いて父も屋根に上り、さらに網戸を大神宮の拝殿へ掛け渡して逃げ道を作りました。
「さあ、これで、もう、大丈夫だ。此所で一気息《ひといき》吐《つ》こうじゃないか」
 父はさも安堵《あんど》したような顔をして私を見ながらいいました。私は、父の声を聞きながら、荷物の番をしていた万年屋の方を向いて見ました。すると、万年屋の二階の雨戸が二、三枚、朱《あけ》に染まった虚空《こくう》の中へ、紙片《かみきれ》か何んぞのようにひらひらと舞い上がりました。と、雨戸のはずれた中から真黒の烟《けむり》がどっと出る。かと思うと、今度は真紅の焔《ほのお》が渦を巻いて吹き出しました。
「お父《とっ》さん。万年屋が……」
と、いっているうち、見る見る一面の火となってしまいました。
 私はこの時仕事師のいった言葉を思い出し、もう少しぐつぐつしていようものなら……と思わず身体が震えました。

 私たちは、床店の屋根の上で、暫く火事の様子を見ていました。急に安心をした故《せい》か、この時初めて恐ろしい風だということに気が附きました。それまでは全く夢中でした。
 それから、今日《こんにち》でもハッキリ記憶をしておりますが、万年屋の前で荷物の番をしている時、持ち出してある大酒樽《おおさかだる》の飲み口が抜けて、ドンドンと酒が溢《あふ》れ出る。その酒のしぶき[#「しぶき」に傍点]が私の衣物《きもの》をびっしょりにしてしまいました。私は濡《ぬ》れたままで、仕事師に突き出され、人波に揉まれ、父に扶《たす》けられ、今、この床店の屋根に上って、父の傍で、師匠の荷物も何もかも火の海と化し去る所を見ているのでありますが、万年屋、山城屋(菜飯屋)などの火焔の煽りで熱くなって、その酒に濡れた衣物が乾いて、烟《けむ》が出ているのに気が附きました。乾きかけた袂《たもと》からは酒臭い匂《にお》いが発散《たっ》ていました。
 そうして、火は私たちの上っている屋根の前を一面に舐《な》めて、花川戸の方へ焼け延びて行きました。

 やがて、父と私とは、家へ帰ることにしました。帰るといって私の師匠の家はもう焼失してしまっていますから、父の家へ帰るよりほかありません。網戸を伝って拝殿へ這い上り、其所からまた網戸を梯子《はしご》にして大神宮様の敷き石の上へ降りました。
 父は始終私の身辺を気遣い、わが身のことは忘れたかのように劬《いた》わってくれました。降りた処は雷門の直ぐ後ろで、それから大神宮の大きな花崗石《みかげ》の鳥居を潜《くぐ》り(この鳥居は後で見たら、中央からポックリと両《ふた》つに折れていました。これは柳川《やながわ》力士|雲竜久吉《うんりゅうきゅうきち》が納めたもので、その由を彫ってあった)仲店《なかみせ》を仁王門に向って、伝法院へ這入《はい》り、庭を抜けて田圃を通り、前述の新門辰五郎のいる西門を、新門の身内のものに断わって通るまでに、後を振り顧《かえ》って見ると、仲店から伝法院へ曲がる角にあった火の見|櫓《やぐら》に火が掛かり、真赤になって火柱のように見えました。
 それから、左は蛇骨湯、右は清正公のあるお寺の通り、それから上野の車坂《くるまざか》の方へ真直に合羽橋《かっぱばし》を渡ると、右角が海禅寺《かいぜんじ》(これは阿波《あわ》様のお寺)、二丁ほど行くと、右側が東明寺で、左が源空寺……すなわち源空寺門前の父の家のある所で、私は久しぶり、我が家へ帰って来たのでありました。



底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
   1929(昭和4)年1月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:しだひろし
2006年2月14日作成
2006年6月21日修正
青空文庫作成ファイル:
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終わり
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