へ躍《おど》り上がり、箪笥《たんす》、長持《ながもち》を踏み越え踏み越え、やっと、雷門の脇の大神宮《だいじんぐう》様の脇を潜《くぐ》り抜けて、心ばかりは万年屋指して飛び込んで来ましたが、やはり恐ろしい人波でニッチもサッチも行かないのでした。
私は何時《いつ》の間《ま》にか、雷門の方を向いて人波の中を泳いでいました。泳いでいるといって好いか、揉み抜かれているといって好いか。人間と人間との間の板挟《いたばさ》みにされ、両脚《あし》は宙に浮いて身体が波の動揺のままにゆさぶられているのです。そのくせ、眼には昼よりも明るい一面の火の幕がハッキリと見え、人の顔と、真黒な頭の頂天のチョン髷《まげ》とが影絵のように映っている。そうしたままで、また良々《やや》暫く揉まれ抜いていると、ふと、百千の人の顔の中から、父兼松の顔を見附けました。ハッと思うと同時に、父の眼顔《めがお》に、私を見附けたという喜悦《よろこび》の表情の動くのを見ました。父は、口を開《あ》いて、何かを叫び、両手を上へ揚げて、一心不乱に私の方へ突進して来ようと焦燥《あせ》っている有様。私は私で、父を見附けると、ただ、もう、父の方へ、一本槍に進んで行こうと百掻《もが》いている。その間隔はたった十人か十五人位の人垣《ひとがき》によって押し隔てられているのですが、親も子の傍へ来ることが出来なければ、子も親の側へ寄って行くことも出来ない。心は矢竹《やたけ》にはやれどもわれ人ともに必死の場合とて、どうすることも出来ないのでした。
しかし、私たち親子の一心が通ったものか、とにかく、親子は犇《ひし》と抱き合いました。
「もう大丈夫だ。俺が附いている」
こう父が確《しっ》かりした声で、私を抱いていった時、私は、一生に、この時ほどうれしかったことはありません。私の父兼松は生粋《きっすい》の江戸ッ児で、身長《なり》こそは小さいが、火事なぞに掛けては、それはハシッコイ人物、……我子を両手に抱いたうれしさに勇気も百倍し、それから人波を押し割って元の道に引ッ返し、大神宮際の床店の所まで父は私の楯《たて》となって引き退いたのでありました。
其所《そこ》で、父は、とある荷物の中から、一つの網戸を引っぱり出し、それを床店の屋根に掛けました。そうして、私の尻を押すようにして、私を屋根に上《のぼ》らせました(戸の桟《さん》を足場にして攀《よ》じ上る)。続いて父も屋根に上り、さらに網戸を大神宮の拝殿へ掛け渡して逃げ道を作りました。
「さあ、これで、もう、大丈夫だ。此所で一気息《ひといき》吐《つ》こうじゃないか」
父はさも安堵《あんど》したような顔をして私を見ながらいいました。私は、父の声を聞きながら、荷物の番をしていた万年屋の方を向いて見ました。すると、万年屋の二階の雨戸が二、三枚、朱《あけ》に染まった虚空《こくう》の中へ、紙片《かみきれ》か何んぞのようにひらひらと舞い上がりました。と、雨戸のはずれた中から真黒の烟《けむり》がどっと出る。かと思うと、今度は真紅の焔《ほのお》が渦を巻いて吹き出しました。
「お父《とっ》さん。万年屋が……」
と、いっているうち、見る見る一面の火となってしまいました。
私はこの時仕事師のいった言葉を思い出し、もう少しぐつぐつしていようものなら……と思わず身体が震えました。
私たちは、床店の屋根の上で、暫く火事の様子を見ていました。急に安心をした故《せい》か、この時初めて恐ろしい風だということに気が附きました。それまでは全く夢中でした。
それから、今日《こんにち》でもハッキリ記憶をしておりますが、万年屋の前で荷物の番をしている時、持ち出してある大酒樽《おおさかだる》の飲み口が抜けて、ドンドンと酒が溢《あふ》れ出る。その酒のしぶき[#「しぶき」に傍点]が私の衣物《きもの》をびっしょりにしてしまいました。私は濡《ぬ》れたままで、仕事師に突き出され、人波に揉まれ、父に扶《たす》けられ、今、この床店の屋根に上って、父の傍で、師匠の荷物も何もかも火の海と化し去る所を見ているのでありますが、万年屋、山城屋(菜飯屋)などの火焔の煽りで熱くなって、その酒に濡れた衣物が乾いて、烟《けむ》が出ているのに気が附きました。乾きかけた袂《たもと》からは酒臭い匂《にお》いが発散《たっ》ていました。
そうして、火は私たちの上っている屋根の前を一面に舐《な》めて、花川戸の方へ焼け延びて行きました。
やがて、父と私とは、家へ帰ることにしました。帰るといって私の師匠の家はもう焼失してしまっていますから、父の家へ帰るよりほかありません。網戸を伝って拝殿へ這い上り、其所からまた網戸を梯子《はしご》にして大神宮様の敷き石の上へ降りました。
父は始終私の身辺を気遣い、わが身のことは忘れたかのように劬《いた》
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