……句の解釈は別段だけれども、実地には時鳥のよく鳴いた所です。そして向う河岸一帯は百本|杭《くい》の方から掛けて、ずっとこう薄気味《うすぎみ》の悪いような所で、物の本や、講釈などの舞台に能《よ》くありそうな淋しい所であった。

 さて、駒形堂から後《あと》へ退《さが》って、「川升《かわます》」という料理屋が大層|流行《はや》り、観音の市の折りなど、それは大した繁昌。客が立て込んで酔興な客が、座敷に出てる獅噛火鉢《しがみひばち》を担《かつ》ぎ出して持って行ったのさえも気が附かなかったという一ツ話が残っている位、その頃はよく有名なお茶屋などの猪口《ちょこ》とか銚子袴《ちょうしばかま》などを袂《たもと》になど忍ばせて行ったもの、これは一つの酒興で罪のないわるさ[#「わるさ」に傍点]であった。
 諏訪町では向って左が諏訪神社、師匠東雲の店は社の筋向うの右側にあったのです。町の中ほどには紅勘《べにかん》(小間物屋)があってこれも有名でした。紅勘で思い出すが、その頃、鉦《かね》と三味線《さみせん》で長唄《ながうた》を歌って流して歩いた紅勘というものがあって評判でありました。これが小間物屋の紅勘と何か関係あるように噂《うわさ》されたが、実際は全く何んの因縁もなかったものといいます。菊五郎《きくごろう》であったか、芝翫《しかん》であったか、この紅勘のことを芝居にしたことがありました(長唄の紅勘とは別の男ですが、五代目菊五郎がまだ羽左衛門《うざえもん》で売り出しの時、鎌倉節仙太郎《かまくらぶしせんたろう》という者が、江戸市中を鉦三味線で、好い声で飴《あめ》を売りながら流して歩いて評判でした。羽左衛門がそれをやって大当りのことがありました)。
 小間物屋の紅勘と近接した横丁には「みめより[#「みめより」に傍点]」という汁粉《しるこ》屋がある。それから「金麩羅《きんぷら》」という天麩羅屋がある。いずれも繁昌、右側は乾《いぬい》(煙草屋)、隣りが和泉屋《いずみや》(扇屋)、この裏へ這入《はい》ると八百栄《やおえい》(料理屋)それから諏訪町河岸へ抜けると此所は意気な土地で、一中《いっちゅう》、長唄などの師匠や、落語家では談枝《だんし》などもいて、異《おつ》な人たちが住まっていた。河岸つづきで、河岸には「坊主蕎麦《ぼうずそば》」というのがあって、これは一流でした。主人は坊主で、聾《つんぼ》のため「聾そば」で通っていた。その隣りが浅利屋という船宿《ふなやど》、此所を浅利屋河岸といった。表通りの金麩羅屋の向うに毛抜き屋があった。この店の毛抜きは上手といわれたもの、いろいろ七ツ道具が揃っていて、しゃれた人たちが買いに来た。それから、錫屋《すずや》というのがあった。この店は江戸市中にも極《ごく》少ない店で、錫の御酒徳利、お茶のつぼ、銚子などを売っていた。
 黒船町《くろふねちょう》へ来ると、町が少し下って二の町となる。村田の本家(烟管屋《キセルや》)がある。また、榧寺《かやでら》という寺がある。境内に茅《かや》が植わっていた。それから三好町《みよしちょう》、此所には戯作《げさく》などをした玄魚《げんぎょ》という人のビラ屋があった。

 こう話して行くと、記憶は記憶を生んで、何処まで行くか分りませんから、雷門へひとまず帰って、門へ向って左側、広小路へ出ましょう。
 此所にはまた菜飯《なめし》茶屋という田楽《でんがく》茶屋がありました。小綺麗《こぎれい》な姉《ねえ》さんなどが店先ででんがくを喰《く》ってお愛想をいったりしたもの、万年屋、山代屋《やましろや》など五、六軒もあった。右側に古本屋の浅倉、これは今もある。それから奴《やっこ》(鰻屋)。地形が狭《せば》まって田原町になる右の角に蕎麦屋があって、息子《むすこ》が大纏《おおまとい》といった相撲《すもう》取りで、小結か関脇位まで取り、土地ッ児で人気がありました。この向うに名代の紅梅焼きがありました。

 観音堂に向っては右が三社権現、それから矢大臣門(随身門《ずいじんもん》のこと)、その右手の隅に講釈師が一軒あった。
 門を出ると直ぐ左に「大みつ」といった名代な酒屋があった。チロリで燗《かん》をして湯豆腐などで飲ませた。剣菱《けんびし》、七ツ梅《うめ》などという酒があった。馬道へ出ると一流の料理屋富士屋があり、もっと先へ出ると田町《たまち》となって、此所は朝帰りの客を招《よ》ぶ蛤鍋《はまなべ》の店が並んでいる。馬道から芝居町《しばいまち》へ抜けるところへ、藪の麦とろ[#「とろ」に傍点]があり、その先の細い横丁が楽屋新道《がくやしんみち》で、次の横丁が芝居町となる。猿若町は三丁目まであって賑《にぎ》わいました。
 山《やま》の宿《しゅく》を出ると山谷堀……越えると浅草町で江戸一番の八百善《やおぜん》がある。その先は重箱
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