ことが好きで、よく一日そんなことに気を取られて、近所の子供たちと悪戯《いたずら》をして遊ぶことも忘れているというような風であったから、親たちもそれに目を附けたか、この児《こ》は大工にするがよろしかろうということになった。大工というものは職人の王としてあるし、職としても立派なものであるから、腕次第でドンナ出世も出来よう、好きこそ物の上手で、俺《おれ》に似て器用でもあるから、行く行くは相当の棟梁《とうりょう》にもなれようというような考えで、いよいよ両親は私を大工にすることにした。

 ちょっとその頃の私どもの周囲の生活状態を話して見ると、今からは想像の外《ほか》であるようなものです。現在《いま》ではただの労働者でも、絵だの彫刻だのというようなことが多少とも脳《あたま》にありますが、その頃はそうした考えなどは、全くない。絵だの彫刻だのということに気の附くものは、それは相当の身分のある生活をしている人に限られたもので、貧しい日常を送っている町人の身辺には、そんなことはまるで考えても見なかったものです。早い話が、家のつくりのようなものでも、作りからして違っている。今日ではドンナ長屋でも床《とこ》の間《ま》の一つ位はあるけれども、その時代は、普通の町人の家には床の間などはない。玄関や門などはなおさらのこと、……そういうもののあるのは、居附《いつ》き地主か、名主《なぬし》か、医者の家位です。住居でも、衣食のことでも、万事大層手軽なものでありますから、今いったような絵画彫刻というようなことに気が附かぬのは当然なことである。何んでも手に一つの定職を習い覚え、握りッ拳《こぶし》で毎日|幾金《いくら》かを取って来れば、それで人間一人前の能事として充分と心得たものです。
 そんなわけで、私も単純に大工という職業を親たちが選んでくれたので、私にもまた別に異存のありようもなかった。でいよいよ弟子入りをするということに話は進んで行くのであるが、そのまた弟子入りということも簡単なものであった。弟子入りとして、弟子師匠と其所《そこ》に区別が附いて相当の礼をして、師弟の関係の出来るのは、それは学文《がくもん》とか、武芸の方のことであって、普通町人|側《がわ》の弟子入りは、単に「奉公」で「デッチ奉公」であります。デッチ野郎が小僧に行くことでありますから、別段特別の意味はないのであるが、ただ、その年期のこ
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