雨が鞦韆《ブランコ》のやうに揺れる、椽側《えんがは》に寝そべりながら、団扇《うちは》で蚊をはたき、はたきする、夏の夜など、遠い/\冥途《めいど》から、人を呼びに来るやうな、ボウ、ボウと夢でも見るやうな声が、こんもりした杉の梢から、あたりの空気に沁み透つて、うつゝともなく、幻ともなく、神経にひゞく、「梟《ふくろふ》が啼《な》き出したよ」と、宅の者はいふ、ほんとうに梟であるか、どうか、私は知らないが、世にも頼りのなさゝうな、陰惨たる肉声が、黒くなつた森から濃厚な水蒸気に伝はつて、にじみ出ると、生活から游離された霊魂が、浮ばれずにさまよつてゐるのではなからうかと思はれて、私は大地の底へでも、引き擦《ず》り入れられるやうに、たゞもう、味気《あぢき》なく、遣《や》る瀬のない思ひになつてくる。
 それよりも秋の夜は、箱根大山辺からの、乾《から》ツ風が吹き荒《すさ》んで、森の中の梢といふ梢は、作り声をしたやうに、ざわ/\と騒ぎ立ち、落葉が羽ばたきをしながら、舞ひ立つて、夜もすがら戸を敲《たゝ》き、屋根を這《は》ひずり廻る、風の無い夜は、朝起きて見ると、森の中一杯に剣の光を含んだ霜が下りてゐる、その夕暮に、久保山の人焼く煙を、疎林の中の逍遥に見たこともある、秋の末から冬になると、何々谷戸といふ特種の部落に属する人たちの若い娘などが、落葉籠をしよつて薪を折りに、林の中をうろついてゐるのに出遇ふ。
 私は中学校の裏から、久保山へ抜ける森の中の落葉道で、その一人にひよつくり遇つたことがある、継ぎ剥《は》ぎの衣物《きもの》ながら、頸《くび》から肩へかけて、ふつくらした肉の輪廓が、枯れ残つた櫨《はぜ》の赤い葉蔭に、うす暗く消えて、引き締つた浅黒い円味のある顔にパツチリとした眼が、物思はしげに見えた、無言で行き遇つて、無言で通り過ぎたが、ツルゲネフの少年時代に、森蔭で農奴《サアフ》の少女に、髪の毛をいぢられたことを、四十年も後になつてから、生々と描いてゐることを憶《おも》ひ出した。
 山王山から久保山に亘つて、森の中は静かではあるが、空気は冷たくない、森の戸《ドーア》を開けて入ると、地形がおのづと幾つもの室を作つてゐる、森の茂つてゐるところは、大概高地で、そこから落ち窪んだところは、池になり、畑になり、又谷戸にもなつてゐる、豚谷戸だの、乞食谷戸だのといふ綽名《あだな》があつて、特殊の部落も、そ
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