るなり、おもひみる天風|北溟《ほくめい》の荒濤《くわうたう》を蹴り、加賀の白山を拍《う》ちて旋《か》へらず、雪の蹄《ひづめ》の黒駒や、乗鞍ヶ嶽駒ヶ嶽を掠《かす》めて、山霊《やまたま》木魂《こだま》吶喊《とき》を作り、この方寸|曠古《くわうこ》の天地に吹きすさぶを、永冷《ひようれい》[#「永冷」はママ]歯に徹し、骨に徹し、褞袍《どてら》二枚に夜具をまで借着したる我をして、腮《あご》を以て歯を打たしむ、竟《つひ》に走つて室に入り、夜具引き被《かづ》きて、夜もすがら物の怪《け》に遇ひたる如くに顫《おのゝ》きぬ。
翌朝四時十五分といふに、床を蹴る、未だ日の出を見ずして、大島、利島、御蔵島の、糢糊《もこ》の間に活《い》きて游ぶにあらざるかを疑ふ、三浦半島と房総と、長虫の如く蜿《う》ねりて出没す、武甲の山は純紫にして、蒸々たる紅玉の日、雲の三段流れに沁《し》み入りて、眩光《げんくわう》を斜に振り飛ばすや、劒ヶ峰の一角先づ燧《ひうち》を発する如く反照し、峰に倚《よ》れる我が髭《ひげ》燃えむとす、光の先づ宿るところは、棟《むね》高き真理の精舎《しやうじや》にあるを念《おも》ふ、太陽なる哉《かな》、我は現世に在りて只《たゞ》太陽を讚《さん》するのみ、顧れば甲武の山の若紫を焼いて、山肩|茜色《せんしよく》の暗潮一味を刷《は》く。
下りて七合目に至る、霜髪の翁《おきな》、剛力の肩をも借らず、杖つきて下山するに追ひつく、郷貫《きやうくわん》を質《たゞ》せば関西の人なりといふ、年歯《ねんし》を問へば、即《すなは》ち対《こた》へて曰《いは》く、当年八十四歳になります!
底本:「日本の名随筆58 月」作品社
1987(昭和62)年8月25日第1刷発行
底本の親本:「小島烏水全集 第四巻」大修館書店
1980(昭和55)年3月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※「劒ヶ峰/剣ヶ峰」の混在は底本の通りです。
入力:土屋隆
校正:門田裕志
2006年9月21日作成
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