て足れりと広舌《くわうぜつ》して、朝まだき裾野を往《ゆ》く。
市街を離れて里許《りきよ》、不二の裾野は、虫声にも色あり、そよ吹く風にも色あり、色の主《あるじ》を花といふ、金色星の、夕《ゆふべ》下界に下りて、茎頭《けいとう》に宿りたる如き女郎花《をみなへし》、一輪深き淵《ふち》の色とうたはれけむ朝顔の、闌秋《らんしう》に化性《けしやう》したる如き桔梗《ききやう》、蜻蛉《とんぼ》の眼球の如き野葡萄《のぶだう》の実、これらを束ねて地に引き据《す》ゑたる間より、樅《もみ》の木のひよろりと一際《ひときは》高く、色波の旋律を指揮する童子の如くに立てるが、その枝は不二と愛鷹《あしたか》とを振り分けて、殊《こと》に愛鷹の両尖点《りやうせんてん》(右なるは主峰越前嶽にして位牌《ゐはい》ヶ嶽は左の瘤《こぶ》ならむ)は、躍《をど》つて梢に兎耳《とじ》を立てたり、与平治《よへいじ》茶屋附近虫取|撫子《なでしこ》の盛りを過ぎて開花するところより、一里茶屋に至るまで、焦砂《せうさ》を匂《にほ》はすに花を以てし、夜来の宿熱を冷《ひ》やすに刀の如き薄《すゝき》を以てす、雀《すゞめ》おどろく茱萸《ぐみ》に、刎《は》ね飛ばされて不二は一たび揺曳《えうえい》し、二たびは青木の林に落ちて、影に吸収せられ、地に消化せられ、忽焉《こつえん》として見えずなりぬ、満野《まんや》粛《しゆく》として秋の気を罩《こ》め、騎客《きかく》草間に出没すれども、惨《さん》として馬|嘶《いなゝ》かず、この間の花は、磧撫子《かはらなでしこ》、蛍袋《ほたるぶくろ》、擬宝珠《ぎぼうし》、姫百合、※[#「肄」の「聿」に代えて「欠」、第3水準1−86−31]苳《ふき》、唐松草等にして、木は百中の九十まで松属《まつぞく》の物たり。
一里松附近より、角度少しく急にして、大木を見ず、密々たる灌木《くわんぼく》、疎々《そゝ》たる喬木《けうぼく》の混合林となりて、前者を代表するに萩《はぎ》あり、後者には栗多く、それも大方は短木、この辺より不二は奈良の東大寺山門より大仏を仰ぐより近く聳《そび》え、半《なかば》より以上、黄袗《くわうしん》は古びて赭《あか》く、四合目辺にたなびく一朶《いちだ》の雲は、垂氷《たるひ》の如く倒懸《たうけん》して満山を冷《ひ》やす、別に風より迅《はや》き雲あり、大虚を亘《わた》りて、不二より高きこと百尺|許《ばかり》なると
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