いるに似ず、亭々として高く、すらりと延び上っている自然のままの、気高さに打たれる。路は次第に下って、多分三合目位だろうと思われる高度の、大沢の小舎に着く。御中道に昔は小舎がなくて、参詣の道者が難渋するため、そのうちの難所たる大沢に、お助け小舎を置いたそうだが、それは疾《と》くにつぶれて、今のは粗末ながら、普通の旅人宿めいた小舎である。しかし元来、御中道めぐりは、信神の道者を主とするので、近来盛んになった女人の登山も、ここへはほとんど影を見せず、森林と絶壁と深谷とで、四周を切り離されているから、山中の室《むろ》としてのさびが、心ゆくばかり味わわれる。主人は署名帳を出して、私に物書けというから、三、四行したためた。私は登山すべく、あまりに老いたとは思っていないが、まだ登るべき多くの山を控えているから、恐らく生涯に二度とここまで来なかろうと思う。芭蕪翁のわが詠み捨てた句は、一つとして辞世《じせい》ならざるはなしの徹底芸術精神は、学んで到り得るにあらねども、一|順礼《じゅんれい》の最後の足跡までに、印《しるし》をつけておいた。
 ここに限らず、富士の室は風俗史的に見て、欧米諸国の山小舎に、ちょっと類例のないものがある。約《つづ》めていえば、永い年代の間、人間味のしみ込みの深さである。室ごとに請《こ》わるるままに、金剛杖に焼印を押すが、不二の象形の下に、合目や岳の名を書いたり、不二形の左右に雲をあしらい、御来光と大書して、下に海抜三千二百何メートルと註してあったり、富士とうずまく雲を下に寄せて、その上に万年雪の詠句を題したものなど、通俗的の意匠が施されている。飲食も、コーヒー、シトロン、紅茶などの近代的芳香の飲料と、阿倍川《あべかわ》もち、力もち、葛湯《くずゆ》、麦粉などの中世的粗野なる甘味が供給される。殊に私の目をひいたのは、登山者参詣人が、室の板壁、屋根裏や、柱に張り残してゆく名札で(それは室に取って迷惑なものかも知れないが)、木版刷、石版刷の千社札に類した人名や登山会の名を記したもので、寸法こそ必ずしも、天狗《てんぐ》孔平以来、江戸末期に行われた何丁がけの法式に則《のっと》らずとも、また平俗であっても、相応の意匠を凝らして作成したもので、アメリカの登山小舎に見る鉛筆の落書や、活字印刷の事務的名刺のはりつけなどよりも、登山そのものを幾分か芸術化させる。それから、江戸時代の
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