」という歌は、余りに言い古されているとしても、江戸から富士を切り捨てた絵本や、錦絵《にしきえ》や、名所|図会《ずえ》が、いまだかつて存在したであろうか。
 私のいる室は、一石《いっこく》橋を眼下に瞰下《みおろ》しているが、江戸時代に、その一石橋の上に立って見廻すと、南から北へ架け渡す長さ二十八間の、欄干《らんかん》擬宝珠《ぎぼうしゅ》の日本橋、本丸の大手から、本町への出口を控えた門があって、東詰《ひがしづめ》に高札を立ててあった常磐《ときわ》橋、河岸から大名屋敷へつづいて、火の見やぐらの高く建っていた呉服橋、そこから鍛冶《かじ》橋、江戸橋と見わたして、はては細川侯邸の通りから、常磐橋の方へと渡る道三《どうさん》橋、も一つ先の銭瓶《ぜにかめ》橋までも、一と目に綜合して見るところから、八つ見橋の名があったそうだが、その屈折した河岸景色を整調するように、遥か西に、目の覚めるような白玉の高御座《たかみくら》をすえたのが、富士山であったことは、初代|一立斎広重《いちりゅうさいひろしげ》の『絵本江戸土産』初篇開巻に掲出せられて、大江戸の代表的風光として、知られていたのであった。私が二、三日前、ふと夜店で手に入れた天保七年の御江戸分間地図を見ると、道三橋から竜《たつ》の口《くち》、八代洲河岸にかけて、諸大名や、林|大学頭《だいがくのかみ》の御上屋敷、定火消《じょうびけし》屋敷などが立並んでいる。そのころは既に広重の出世作、『東海道五十三次』(保永堂板)は完成され、葛飾北斎《かつしかほくさい》の『富嶽三十六景』が、絵草紙屋の店頭に人目を驚かしていたのであるが、その地図にある定火消屋敷で、広重が生れ、西の丸のお膝下《ひざもと》で、名城と名山の感化を受けていたのだと思うと、晩年に富士三十六景の集作があったのも、偶然でない。
 ついでに駿河町の越後屋(そのころの三井呉服店、今の三越)をいおう。大通りをはさんだ両側の屋根看板に、「呉服物類品々、現金掛値なし」と、筆太にしたためた下から、または井げたの中に、「三」と染め抜いた暖簾《のれん》の間から、出入|絡繹《らくえき》する群集を見おろして、遥に高く雲の上に、睛を点じたものが富士山であったことは、喜多川歌麿の「霜月|見世開《みせびらき》之図」や、長谷川雪旦の『江戸名所図会』一の巻、その他同様の構図の無数の錦絵におもかげを残している。殊に北斎の
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