されるように混んだ、肘《ひじ》と肘と触れ、背と背と合された人々が、駅ごとに二、三人ずつ減る、はてはバラバラになって、最後の停車場《ステーション》から、大きな、粗い圏《わ》を地平線に描いて散った、そうして思い思いの方向へと往《い》った。
鳶《とび》のように、虚空へ分け入ったのは、私たちである、あれから五夜で、私たちは海抜八千尺ほどの、甲州アルプスへ来た、山の上には多年雪に氷に磨り減らされて、鑢《やすり》のように尖った岩が、岩とつづいて稜角《リッジ》がプラットホームのように長い、甲府平原から仰いだ、硬い角度の、空線《スカイライン》の、どれかの端を辿《たど》っているのだ、何万という、下で寄り集まった眼球がみんな私たちを仰向いているような気がする、その稜角の窪んだ穴の中に、頭を駢《なら》べて、横になったのが、私たち四人――人夫を合せて八人――偃松《はいまつ》の榾火《ほだび》に寒さを凌いで寝た。
霧が夜徹《よどお》し深かった、焚火の光を怪しんで、夜中に兎が窺《うかが》い寄ったと、猟師は言ったが、私は寝ていて知らなかった、草鞋《わらじ》も解かないで、両足をとろとろ火に突っ込んで、寝ていたとき、小坊主がちょこちょこと歩んで来て、人の寝息を窺ったのを、微《ほの》かに知っている、眼を覚ますと、スーッと白い霧の中へと飛んで、羽ばたきの影が、焚火に映ったようだ。
寒いので仲間が、入れ代りに眼をさます。猟師は、焼木杭《やけぼっくい》に烟管《キセル》をコツコツ叩きながら、
今がた雷鳥が何羽も出来やした。
と話す。
霧はフツ、フツと渦巻く、偃松に白く絡んで、火事場の烟でも立つように、虚空を迷っている、天幕《テント》の屋根の筋目から仰ぐと、暗灰色の虚空《そら》が壁のように狭くなって、鼻の先に突っ立っている、雨と知りながらも、手を天幕の外へ出すと、壁から浸染《にじ》み出る小雨に、五本の指が冷やりとする、眼がやっと醒《さ》める。
ゆうべは月がちょっと冴えたのに……雨かなあ。
と仲間の一人が欠伸《あくび》をして言う。
そのときは、富士山が、怖ろしく大きく見えたが、見ているうちに、細くなって莟《つぼ》んでしまった。
……いやな、霧だなあ。
と、私は嘆息する、天地の間には、風が吹くのでなければ、霧が流れるのだ、そのたびに、天幕の中へ、ザアと小粒の雨がそそぎ入る、柱代りの金剛杖が、キュッと呻る、杭に纜《もや》われた小舟が、洪水に飜弄されるように、油紙の屋根が、ペラペラ動く。
何時だか、時計を出すのも臆劫《おっくう》だ、朝だか夜中だか解らない。
尻に敷いた褥《しとね》は、可愛らしい高山植物で、チングルマの小さい白花、アカノツカサクラの赤い花などが、絨氈の斑紋になって、浮き上る、焚火の影に、鮮やかな織目を見せる。
早く日の目が見たい。
早く穴の中から這い出したい。
同じ思いが、仲間の顔色に読まれる、飯を炊くのに、未だ時間がある、思い切って天幕から一、二間歩き出した、岩を二ツ三ツ飛び越えて、次第に爪先が上る、無辺無限の単調《モノトニイ》の線が、どこへ繋《つな》がって、どこへ懸っているのか、解らない……やはりあの空線の一つを辿っている。
天幕が霧の中に、小さくぼんやり見える、四ツ柱に、油紙がぺらぺらとして、田舎の卵塔場《らんとうば》のようだ、今まで、あそこに寝ていたのか知ら……この霧と雨の中を、たった紙一枚の下に……火光がパッとさす、霧の水球《みずたま》が、美しい紫陽花《あじさい》色に輝いたかとおもうと、消えた。
稜角の端まで這い出して、小さい阜《おか》――古代の動物の骨のようにゴロゴロ転がっている石の堆積――の上に立った、石はビッショリと濡れて、草鞋が辷る。
朝明りか知らん大きな水平のひろごりが、足許に延されている、白い柔毛《にこげ》のような雲が、波の連続するように――したが一つの波も動くとは見えない――凸凹《たかひく》を作って、変化のある海が、水平線の無限に入っている、しかし正面は、霧が斜に脈を引いて、切れそうにもない、その間から彎弓《ひきゆみ》のような線が、幾筋となく泳いで出た、ハッキリすると土堤ほどの大きさになった、山である、関東山脈の一端と、早川連嶺の一角とだけが、おぼろに見えたのである、山と山との間は、みんな空席で、濃厚な水蒸気が、その間に屯ろしている、山という山の各自は、厳しく守られている、生物は守られていない。
雲は凍っているのか、吐息を凝らしているのか、巨大の容積がしずまり返っている。
その深さが何万尺あるか測られない、この中に何か潜力的《ポーテンシアル》な、巨大な物が潜んでいる、そうして生物を圧迫する――化性《けしょう》の蝙蝠《かわほり》でも舞い出そうだ。
あの底には、もしくは外には、都会がある、群集がある、燈火《ともしび》、音曲、寄席、芝居がある、群集と喧噪の圧迫から遁《に》げて、天涯の一角に立ったときに、孤独と静粛の圧迫!
少し明る味がさした、明る味のさした方角を東に定めている、その東の空が、横さまに白く透いた、奥の奥の空である、渋昏《しぶくら》く濁った雲の海の面《プレーン》が、動揺混乱するけはいが見える。
外套をふわりと脱いだように、眼の前の霧の大かたまりが、音もなく裂けて、谷へ落ちた。
富士山が、すッきりと立った。
名も歴史もない甲州アルプスに、対面して、零落《れいらく》の壮大、そのものが、この万年の墳墓を中心にして今虚空を奔《はし》る。
空々寂々の境で、山という山の気分が、富士山に向いて、集中して来る、谷から幾筋とない雲が、藍の腐ったような塊になって、立ち昇る、富士山はこの雲と重なって、心もち西へ西へと延びて来るようだ、蝕《むしく》った雲の淵の深さが、何十尺かの穴となって、口が明く。
頭がようやく冴えて来た、足許の岩では、偃松が近くは緑に、遠くは黯《くら》くなって、蜿《う》ねっている、天外絶域の、荒れはてた瘠土《やせつち》にまで、漂って来た、緑の垂直的終点を、私は今踏んでいるのだ。
空の気味の悪いほど、奥まで隙《す》いて光っているだけに、富士山は繻子《しゅす》でも衣《き》たように、厚ぼったくふやけ[#「ふやけ」に傍点]ている、いつもの、洗われたように浄い姿ではない、重々しい、鼠ッぽい色といったらない。
いつの間にか、仲間が一人来る、二人|蹤《つ》いて来る、岩の上には、黒いピリオドが、一点、二点、三点――視線は一様に、鼠色のそれに向う。
富士かね。
富士だよ。
あの山は眠ったことがないから、醒めたこともないというような、澄した顔つきをしている、私たちとの距離は、いよいよ遠くなった、その間を煙のように、眼先を霧が立って、右へ往きそうになったり、左へ思い出して、転がったりしている。
厚味の雲の奥で、日が茜《あかね》さしたのか、東の空が一面に古代紫のように燻《くす》んだ色になった……富士の鼠色は爛《ただ》れた……淡赭色の光輝を帯びたが、ほんの瞬く間でもとの沈欝に返って、ひッそりと静まった。
フツ、フツと、柔くて、しかも鋭敏な音を立てて霧――雨が来た、偃松も、岩も、山も、片ッ端から白い紙になって、虚空に舞い上る。
富士も一息に吹き消された、土地という最大多数から、少量をつまんで、年代また年代と、築き上げて作製した、百万年の壁画が、落ちた。
寂しさは、人の心の空虚を占領した。
鼠色の凶兆《しらせ》はあった、それから間もなく、疾風豪雨になって、一行は、九死一生の惨《みじ》めな目に遇《あ》わされた。
石・苔・偃松(白河内岳に登る記)
野営を撤して、濡れそうなものは油紙で包み、岩伝いに北を向いて、大籠山《おおかごやま》と後で名をつけた一峰に達した、三等三角測量標が立っている、霧が吹雨《しぶき》を浴びせかけて、顔向けも出来なかったが、白峰山脈で、初めての三角標に触れたのだから、ちょっと去りにくい気がした。
それから北西に向って、一つ支峰を越えると、鉢形に窪んだところがあって、白山一華《はくさんいちげ》の白と、信濃金梅《しなのきんばい》の黄とが、多く咲いている、チングルマの小さい白花、赤紫の女宝千鳥《にょほうちどり》などで、小さい御花畑を作っている、霧の切れ目に、白河内岳が眼の前に、ぼんやり現われた、足許は偃松《はいまつ》の大蜿《おおう》ねりで、雲は方々の谷から、しきりに立ち登る、太古の雲が、初めて山の肌に触れたのは、この辺からではあるまいか、そうして執念深く、今もなおあの山に、つき纏《まと》って、谷の住み家を去らずにいるのではあるまいか……前々夜泊まった広河内の谷が、乾からびたように見える、その附近の黒い森林は、一寸位ずつ這い上って来るようで、雲の揺籃《クレードル》のように、水球をすさまじい勢いで吐き出す。
西に向いて、また一峰を超え、やや下ってまた北に向って上る、霧の中で目標にする山もないから、手に磁石を放さない、何でも北へ向けばいいのだ、北へ、北へと歩む。
ふと東北に地蔵鳳凰二山が見えた、鳳凰山の赭《あか》っちゃけた膚に、蒼黯な偃松が、平ッたくなって、くッついている、うしろには駒ヶ岳が、蒼醒《あおざ》めた顔をして覗《のぞ》いている、前には白峰本岳から連続するらしい二枚の連壁が、低いながらも遮っている、今通過した大籠山は、駱駝《らくだ》形をして、三角測量標が、霧の波に冠されながらも、その底から頂へと突き抜いて、難破船の檣《ほばしら》のように出ている、見る見るうちに霧に喰《は》み取られて、半分位持って行かれてしまったかと思ったが、また繋ぎ合わされて立っている、西に間《あい》の岳《たけ》(赤石山脈)が立ち、東に富士山が、二筋ばかりの白い雪を放射して、それが泥黒い雲を通過する光線に翳されて、何だか赤く銹《さ》びた鉄のように見える、富士山の附近は、御阪山脈や、天守山脈だけを、小島のように残して、氷に鉋《かんな》をかけたような雲が、ボロボロ転がっている、山という山の背景は、灰色で一面に塗り潰されている。
北方白峰の本嶺は、一切霧で秘められている、その一切を秘められた北へ北へと、私たちは見えない手に、グイグイ引っ張られて、否でも応でも行かなければならないのだ。
北西の一峰を踰《こ》えたことを記憶している、そこに何があったかと言えば、白花の石楠花《しゃくなげ》があったことだけが答えられる。
乱石で埋まった一峰を越したことも、憶い出される、雪が氷っていたことだけが、眼に泛《うか》ぶ。
それほど霧で眼界を窄《せば》められていた、それだけまた神経が鋭く尖っていた、自分たちから一間ばかり、先へ離れて、雷鳥がちょこちょこ歩いて行く、こっちで停まれば向うでも停まる、歩けば先へ立って行く、冥府から出迎いにでも来た悪鳥のように、この鳥の姿が消えるとき、自分たちの運命も終焉《しゅうえん》を告げるように。
雄大なる白河内岳が、円く眼の前にボーッと立つ、この山を中心として、雲の大暈《おおがさ》が、幻のように圏《わ》を描いてひろがる、日輪の輪廓がひろがって黄色い葵の花のように、廻転するかと思われた。
風が錐《きり》のように痛い、白河内岳の麓で、焚火をしていると、おくれがちの人夫も、あとから追いついて来た、その中の一人は、雷鳥を捉えて来た、少しは休んだが、風と霧と冷たいのと痛いので、落ちつく空はない、とかくに気の重い人夫どもを促して、登りかける、実を言うと、どの方面へ向いて、何処を登っているのだか、もう解らない、人夫もみんな初めての途で、茫然《ぼんやり》しているばかりだ、ともかく眼の前の大山を登った、石片が縦横に抛《な》げ出されている、しかし石と石とは、漆喰《しっくい》にでも粘《く》ッつけられたようで動かない、いずれも苔がべッたり覆せてある、太古ながらの石の一片は、苔に包まれた古都の断礎でも見るように、続々と繋《つな》がって、爪先を仰ぐばかりに中天に高く斜線を引いている――もう白河内岳の上にかかっているのだ、この饅頭形の石山は、北アルプスの大天井《おてんしょう》岳にどこか似ていると思い
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