が、その上を回転して、両崖の森林を振りかえりながら、何か、禍《わざわい》の身に迫るのを、一刻も早く遁《に》げたいというように、後から後から、押し合って、飛んで行く。潭石の下には、大《おおき》さ針の如くなる魚が、全身、透き通るように、青く染って、ぴったりと、水底に沈んでいる。水の面には、生の動揺といった象《かたち》が見えている中に、これはまた青嵐も吹かば吹け、碧瑠璃《あおるり》のさざれ石の間に介《はさ》まって、黙《だ》んまりとした|死の静粛《デッド・カアムネス》! それでいて、眠っているのではない、どこか冴え切って、鋭く物に迫るところがある。鰭《ひれ》一つ動かすときは、おそらく、水紋が一つ描かれ、水楊《みずやなぎ》の葉が一枚散り、谷の中には大入道のような雲がぬうっと立ち昇って、私たちを包んで、白くしてしまうときであろう。私は、この深谷の幾千本針の針葉樹よりも、はた幾|万斛《ばんこく》の水よりも、一寸の魚が、谷の感情を支配していないとは言えなかった。
潭《ふち》が深くて、渉《わた》れないから、崖に攣《よ》じ上る。矢車草、車百合、ドウダンなどが、栂《つが》や白樺の、疎《まば》らな木立の下に、もやもやと茂っている。川床に突出する森の下蔭は、湿りっ気が、最も多いかして、蘇苔が、奇麗《きれい》に布《し》かれている。気紛れに、そこへ根を卸《おろ》したような五葉松は、仰向けに川の方へ身を反らして、水と頷《うな》ずき合って、何か合図をしている。崖下の黯《くろ》い水も、何か喚《わめ》きながら、高股になって、石を跨《また》ぎ、抜き足して駈けている。崖の端には、車百合の赤い花が、ひときわ明るく目立つ。この花を、山家の少女の衣模様に染めたらば、などと思いながら、森を出て、河原に下り、太い逞《たくま》しい樹の蔭に立った。
仰向いて見ると、その樹は、川楊である。章魚《たこ》の足のような根を、川砂の上に露していながらも、倒れずにいる。シバヤナギ、タチヤナギ、いろいろな名があろう、幹の皮は、皺だらけで、永年洗い落したことのない垢……青苔が、厚くこびり粘《つ》いている。夜になると、この筋の根に、一本一本神経が入って大手を振って、のさり、のさり、谷の中を歩きそうだ。川に沿《つ》いて、両側に森がある。森には、樅《もみ》や樺の類が茂っている。しかし、川の中まで足を踏み入れて、人間を嗅ぎ出して、突き倒し兼
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