かな枝振りなどが、今までの動揺した気分を鎮めてくれる、それに天竜川は深く落ち込んでゐるので、もう二階からは見えない、浴衣に着換へ、欄《てすり》に倚つてると、屋《いへ》の背《うしろ》には、峯を負ひ、眼の下には石を載せた板葺家根が、階段のやうに重なつて、空地には唐もろこしを縁に取つた桑畑が見える、苗代田が青く光つて、水はその間を、縦横に流れてゐる。
 谷の中が、黄な臭いやうに、ボーッと明るくなつたとおもふと、高い空を浮ぶ雲が、夕日を受けて、鈍い朱に染まつた、蜩《ひぐらし》が、時間を一秒一秒刻み込んで、谷の中へ追ひ込んでゆくやうに、キ、キ、キと啼き落す、杉林の一本々々の樹が、どちらから寄るともなく、塊まつて、黒い法師のやうになつて、囁き合つてゐる。
 夜になると、こつちの岸と、向うの岸の半腹に、燈火が螢火のやうについて、神寂びた寺院の廻廊か、大森林の秘奥にともす法燈でもあるかのやうに、ひつそり閑となつて、その間に薬研《やげん》のやうな天竜の大峡谷があるともおもはれない。

   三

 朝霧が山村を罩《こ》めて、鶏の声が、霧の底から聞える、黄色い南瓜《かぼちや》の花に、まだ夢が残つてゐるかし
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