た船は、爬虫類のやうに、濡れ色になつて、するりと乗り上げては、ついと下る、一方は石で、一方は水、急潮と静流が、衝き当り、波頂と波底との両方の点の間に、凹み谷が出来て、平坦の波紋が、網を打つたやうに、のんびりとひろがり、それを中心にして、周囲から白い尖波が、爪立つやうに小刻みに擦り寄つて、二三尺の高さの、小さい夕立となつて、水柱がザアと音して、頽《くず》れ落ちる、その中を蹴立てる船の姿は、沙漠を走る駝鳥のやうで、乗つてゐる私の頭の中では、せゝらぐ水につれて千本の小さい針が、さらさらと揉み合つてゐる。
 えいえい声に切り抜けると、小沢の急灘が待ち設けてゐる、白い旋波が、上下運動を起して、岩石を乗り越え、二三尺も裳裾を引いて、跳舞する中を、船は舳《みよし》を垂れるやうにして乗り入れると、遁さじものと、船に添つて大浪の走ること、一反二反と、液体の自由の蜿りが、白蛇のやうに執念くも纒ひつき、逆流する波の速度と、正航する船の速度とが、一つに触れて、船は波頂の間に動揺するところを、黄蝶がふはりと舞ひ出で、波頭を掠めるばかりに低く水に影を映して、又ひらりと飛んでゆく。
 眼の前を走りゆく両岸の光景は、川楊《かはやなぎ》が押し流されて、河原へ仆れてゐる……葛《くず》の二ツ葉の細い蔓が、大石の上を捲いて、一端が川に垂れかゝつて、又反曲して空を握まうとしてゐる……崖の庇石には、ツツジが生えてゐる、川へ転げた石には、青苔がべツたりこびりついて、蘭科植物が、うつすらと生えてゐる……と見る間に、天竜川第一の難所と呼ばれた新滝《にひだき》の荒瀬にかゝると、川とは言へない大波が、むつくり起き上つて、※[#「革+堂」、第3水準1−93−80]鞳《だうたうふ》たる海潮音のやうに鳴りはためき、船は石と石との間に挟みつけられ、右巻左巻の大波小波の中で、押進《あふしん》の力を失ひ、漏斗《ぢやうご》の形をした中央の滅り込んだ波の底に落ちて、胴中から両断されるかと、冷いやりさせたが、さすがに海底と違つて、吸引力の無い浅瀬だから、又吐き出され、浮び上つて、ほつと一息吐いたかとおもふと、二三反するすると押し流された。それからしばらくは水の静けさ!
 こゝなる東岸は、福島といつて、さしも日本のパミ−ル高原、本州を横断する日本アルプスの雪山があるために、日本の屋棟《やね》の中心となつてゐる信州の、最南点であり、最低地点でもある、海面からは僅かに二百米突の高さで、西岸は三河との、東岸は遠江との境界になつてゐる、船頭どもは、こゝまで来て、大役を済ませたやうに、帯締め直し、身を舷側にはみ出して、身体の重量で、船を一方に傾斜させ、閼伽水《あかみづ》を酌み出して、船を軽くさせる。
 福島からは略ぼ直流して来た川も、佐太《さた》と粟代《あはしろ》とで、二回の屈曲をする、その間の高瀬では、川浪が白馬の鬣《たてがみ》を振ひながら、船の中へ闖入して来た。水球が散弾のやうに炸裂し、霧だらけになつたが、舟は身を反らして、辷るやうに乗り越える、山国の信州を出たといふことが、直ぐにも平地か、海岸へ到着するやうに、思はせたが、そゝり立つ崖は、次第に高くなつて、水面との距離が遠くなり、石は海豚《いるか》のやうに、丸い背を出し、重なり合つて水にひたつてゐる、峡谷が大きくふくれて、崖の上には、杉林がこんもりと茂つてゐるかとおもへば、赤松が直射する烈日の下で、熱病でも煩つたやうに、皮膚が焦げてひよろ/\と立つてゐる。平原の地平線も見えず、海の水平線も見えないから、体力にも魂にも休養のないやうに、水と船とは、同一の方向に連続運動をつゞけてゐる、空を見上げると、鋼線が両方の岸に張りわたして「もつこ」に入れた荷物が、揺られながら宙乗りをしてゐる、片肌を脱いで渡舟に腰をかけてゐる渡し守の老人がゐる、あの人はああやつて、川添ひの柳のやうに、一日水ばかり見て暮らしてゐるのだらうか。
 大谷《おほたに》、河内《かうち》などいふ山村を、西岸に見たが、未だ人の町へは遠い、川水は肩で呼吸をするやうに、ゴホゴホと咳きあげて、大泊門《おほせと》の急灘《きふたん》にかゝる、峡谷は一層に狭くなり、波の山が紫陽花のやうに、むらむらと塊まつて、頭を白く尖らして、側から側から隆起する、船は馬の背を分けるやうにその間を通行して、ふりかへれば、雲のくづれるやうな水の爆声を聞く、長灘だの、大瀬だのを、乱濤の間に通り抜けて、イオリが滝へかゝると、峡谷は蹙《ちぢ》まつて、水は大振動を起した、遠くの空には高い峯々が、天を衝いて、ぐるぐると眼の前を回転する、崖の上からは、石が覗いて、峯の上へは白銀の雲が、鶏冠立《とさかだ》ちに突つ立ち上つて、澄みわたつた深淵の空を掻き乱してゐる、長い峡流《カニヨン》に、村落もなければ、人家もない、時々色の黒い土人が、裸で鳶口をか
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