でもある、海面からは僅かに二百米突の高さで、西岸は三河との、東岸は遠江との境界になつてゐる、船頭どもは、こゝまで来て、大役を済ませたやうに、帯締め直し、身を舷側にはみ出して、身体の重量で、船を一方に傾斜させ、閼伽水《あかみづ》を酌み出して、船を軽くさせる。
福島からは略ぼ直流して来た川も、佐太《さた》と粟代《あはしろ》とで、二回の屈曲をする、その間の高瀬では、川浪が白馬の鬣《たてがみ》を振ひながら、船の中へ闖入して来た。水球が散弾のやうに炸裂し、霧だらけになつたが、舟は身を反らして、辷るやうに乗り越える、山国の信州を出たといふことが、直ぐにも平地か、海岸へ到着するやうに、思はせたが、そゝり立つ崖は、次第に高くなつて、水面との距離が遠くなり、石は海豚《いるか》のやうに、丸い背を出し、重なり合つて水にひたつてゐる、峡谷が大きくふくれて、崖の上には、杉林がこんもりと茂つてゐるかとおもへば、赤松が直射する烈日の下で、熱病でも煩つたやうに、皮膚が焦げてひよろ/\と立つてゐる。平原の地平線も見えず、海の水平線も見えないから、体力にも魂にも休養のないやうに、水と船とは、同一の方向に連続運動をつゞけてゐる、空を見上げると、鋼線が両方の岸に張りわたして「もつこ」に入れた荷物が、揺られながら宙乗りをしてゐる、片肌を脱いで渡舟に腰をかけてゐる渡し守の老人がゐる、あの人はああやつて、川添ひの柳のやうに、一日水ばかり見て暮らしてゐるのだらうか。
大谷《おほたに》、河内《かうち》などいふ山村を、西岸に見たが、未だ人の町へは遠い、川水は肩で呼吸をするやうに、ゴホゴホと咳きあげて、大泊門《おほせと》の急灘《きふたん》にかゝる、峡谷は一層に狭くなり、波の山が紫陽花のやうに、むらむらと塊まつて、頭を白く尖らして、側から側から隆起する、船は馬の背を分けるやうにその間を通行して、ふりかへれば、雲のくづれるやうな水の爆声を聞く、長灘だの、大瀬だのを、乱濤の間に通り抜けて、イオリが滝へかゝると、峡谷は蹙《ちぢ》まつて、水は大振動を起した、遠くの空には高い峯々が、天を衝いて、ぐるぐると眼の前を回転する、崖の上からは、石が覗いて、峯の上へは白銀の雲が、鶏冠立《とさかだ》ちに突つ立ち上つて、澄みわたつた深淵の空を掻き乱してゐる、長い峡流《カニヨン》に、村落もなければ、人家もない、時々色の黒い土人が、裸で鳶口をか
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