て、寝惚けた姿をしだらなく大地に投げ出してゐる、ぼツと白壁が明るくなる、森がうつすらと、烟つぽい緑を、向うの山の懐に、だんだら、染めに浮かせる、起き上つて支度をする頃は、方々の家から、軽い炊煙が立ちはじめた。
昨日は時又から、この村まで八里の間を、荷船に便乗したのであるが、その船はもう南へは下らないので、特別に一艘仕立てさせ、西の渡《と》まで、九里の間を下すことにした、高価を払つて買ひ切りにしたのであつたが、船へ来て見ると、旅商人が二人、ちやんと乗つてゐる、のみならず人の行李、鍋、釜、白樺の皮(薪材)まで、幅を利かせて積み込んである、山間の船頭には、昔の雲助のやうな、押の強い風が残つてゐて、買ひ切りであらうが、何であらうが、一人でも余計に乗せて、賃銭を取れゝば取り得としてゐる、併し先を急ぐ旅であるのと、重荷をしよつた旅商人に、苦労をさせるでもなからうと思つて、強ひて咎め立てもしなかつた。
満島を放れるころ、朝日が東山の端を放れ、水の光が艶をもつて、石の傍を白くちよろ/\走るのが、魚のやうである、ふと見ると、西岸は日光を浴びて、樹の影が水に落ち、とろりと澄んだ濃藍の長瀞《ながとろ》に、樹の梢は、すくすくと延び上つて、水鏡をしてゐる、川はひつそりと音もなく、蒸々《じよう/\》と立ちのぼる峡谷の朝霧の底を、櫓の音が、ギイギイと静かにひゞく、森の下蔭を通りぬけ、浅瀬の上を乗越して、信州から遠州境へ近くなつて来た。
ふり仰げば、北方の緑に包まれた山々は、遠山川《とほやまがは》が深く侵蝕してゐるために、谷の通路に当るところだけが切り靡けたやうに低く開けて、北東に日本南アルプスの大主系《だいしゆけい》赤石《あかいし》山脈《さんみやく》の、そゝり立つ鋼鉄の大壁、夏を下界に封じて、天上の高寒は、はや冬のやうに、透明凛烈の青みどろに澄みわたり、乾きわたつてゐる虚無の中に、鋭角線を引き飛ばして、強い鋼筆で、透明な硝子板《ガラスいた》に傷をつけたやうに、劃然と大波を打つてゐる。
左岸に鶯巣《うぐす》の山村を眺めながら、いつしかこの地方特有の領家片岩の露出区域に、峡流《カニヨン》を南へ南へと導いて、水神《すゐじん》の大滝にかゝる、渦と渦とが、ぐるぐるめぐりに噛み合ひ、大気を含んだ透明の泡が花弁のやうに、むらむらと水底から湧きあがり、白く尖つた波が、ざわざわと鱗光りに光る中を、櫂を休め
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