ひらけたかと思ふと、あまり高くはないが、日本アルプス系の一峯が、遠い空に聳えてゐる、おもひ出せば、或時は夕暮の夏の、赫々たる入日に、鋼線《はりがね》が焼き切れるやうな、輝やきと光沢を帯びて、燃え栄つてゐたのも、是等の山々であつた、その山の白い頭を、いや白くして、白金《プラチナ》の輝やきを帯びてゐた氷雪が、日の光と、生命の歓楽に、よどみを作つて、房々とした黒髪の長い処女の森を通り抜け、何千年となく無辜《むこ》の生霊を葬つてゐる、陰惨たる洞窟から、滲み出て、異教徒のやうに、反抗の叫びを高くして、放浪児のやうに、刹那々々の短い歓楽を謳歌して、数千万の水球の群れが、山と山とに囲まれてゐる狭い喉を、我|克《が》ちに、先を争つて通過してゆくのである、一分一秒は、白く泡立つ波と、せゝらぐ水の音に、記録されてゐる、凡ての雰囲気が、みんな水に化けてしまふかとばかりに、一団の雲とも、水蒸気ともつかぬ精力《エネルギー》になつて、吹つ飛んでゆく。
 谷川の水であるから、海にあるやうな深い水の魔魅《まみ》はないかも知れない、けれどもまた海の水のやうに、半死半生の病人が、痩せよろぼひて、渚をのたうち廻つたり、入江に注ぎ入る水に、追ひ退けられたりする甲斐性なしとは違つて、冷たい空の下でも、すゞし絹のやうに柔らかに、青色の火筒《ほや》のやうに透明に、髪の毛までも透き通るまでに晶明に、地球上最も堅固な岩石の、花岡岩[#「花岡岩」はママ]をすら、齲歯《むしば》のやうにボロボロに欠きくづして、青色の光線を峡谷に放射し、反射して、心のまゝ、思のまゝに、進行する見事なる峡流《カニヨン》の姿は、豪奢な羽を精一杯にひろげて、烈々たる日光の下で、王者の舞ひを舞ふ孔雀の威よりも、大きく見える、私は水の青色と、絶え間のない流動の姿とで、沈欝な気分を圧伏され、神経を静かに慰安されたやうになつて、一枚のハンケチを顔の上にかぶせ、仰向きになつて、暫らく青空を見つめてゐた、それも眩ゆくなつたので、崖へ視線を落すと、崖には山百合の花が、白く点々として、芳烈な香気が川風に送られて、鼻腔へ入る、秋は紅葉が赤くなると、どのくらゐ美しいかと、土地の人らしいのが、自慢話をしてゐるのを、聞くともなく聞いてゐるうちに、自分ながら眼晴《ひとみ》が、あやしく散大するやうで、凡ての物が面※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]《ヴエール》を透《す
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