の伊那山脈は、紫陽花色《あぢさゐいろ》の、もくもくした雲の下へ捻ぢこまれて、強烈な印度青《インチゴー》の厚ぼつたい裾も、前なる草山のうしろへ、没してしまふ。
「筏の行つたあとを通るだなあ」「白い瀬の東下りるだよ」と、舳先からは艫の方へ声をかける、中の船頭は、鉄の環の入つた竹棹を、水にグイと入れる、眼に見えない強い力で、両手を引ツ張られ、グルグル引き廻されて、惰力のついたところで、抛り出されたやうに、船はいきほひづいて、滅入るやうに前に俯《かゞ》んで、又ひとうねりの大波を乗つ越すと、瀬の水は白い歯を剥き出して、船底をがりがり噛み始める、水球が飛び散つて、舷側は平手で、ぴちやぴちや叩かれる音がする、腰の廻りへ、袴のやうに蓆《ござ》を着て、鮎を釣つてゐる人が、水沫《しぶき》の中で掻き消されて、又しよツぱい顔が浮ぶ。
「親殺し」といふ崖の下で、水は油を流したやうに、澄んで、今までのさわぎは忘れたやうに、けろりととぼけてゐる。
「磧《かはら》へついて廻したぞ」と、艫の方から声がかゝつたが、夕立のやうに、水がざわついて、小さな水球が、霧雨《きりさめ》となつて飛んで来たので、もう名高い天竜峡に入ツて来たと知つた、竜角峯とか、何々石とかいふ岩石が、水ですり磨され、覇王樹《シヤボテン》のやうに突ツ張つて簇《むら》がつてゐる、どの石もみんな深成岩《しんせいがん》と言はれてゐる花崗岩《くわかうがん》で、地殻の最下層の、岩骨が尖り出て、地下の神経を剥き出しにしてゐるのである、岸と岸との間は、おそらく十五|米突《メートル》ぐらゐな距離しかあるまいが、この並行線は、いつまでも一致しないで、喰ひ合はうとしては離れ、離れては又曲りくねつて、その間を玉虫のような、翡翠《ひすい》のやうな、青葡萄のやうな水が、すうい、すういと流れ、表をかへすと、雪のやうな白い裏地が見える、崖の骨に喰ひついて、萱草《かんぞう》の花が火を燈したやうに、黄色く咲いてゐる、船はもうハムモツクのやうに、空と水の境を揺られる。
崖の出口の、寺が淵へ来ると、騒ぎくたびれた水は、しんとして、静まりかへる、それもしばしで、オハチへ来たころは、渦まく水が強い呼吸で、吹き分けられたやうに、落ち込みが出来て、浪の中に二三尺の穴が明く、船はその中へ吸ひ込まれさうになつて、大岩の曲り角へと突つかけて来ると、竹棹が崖へ飛びついて、弓のやうにしなふ
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