limbing である、土に執著があるならば、岩石に執著があるならば、アルプスのように、氷雪の上を釘靴《ネイルド・ブーツ》や、カンジキを穿《は》き、アルパイン・スチックを突き立て、二重服三重足袋の旅行をするよりも、草鞋《わらじ》で岩石をザクザクやりながら、手ずから火口壁の赭褐《しゃかつ》色なる大塊を握《つか》むべきである、そこに地心の十万億土から迸発《ほうはつ》した、赤焼のした、しかしながら今は凝固した、冷たい胆汁《たんじゅう》に触れることが出来るのである。
 しかも火山を絶対に美しく、完全に美しく見せるのはその輪廓である、私はラスキンをかなり読んだ方だが、火山を知らない人の風景論は、私には異なれる言語で、話しかけられるような、まだるッこさを感じないでもない、あの人の『ヴェニスの石』の第一巻「装飾の材料」で、シャモニイ渓谷の或山で見た氷河、それはアルプスの氷河としては、第二流に属するに過ぎないものであるそうだが、一|哩《マイル》の四分の三ぐらいの長さの線を、今までの生涯(第一巻の出版は彼が三十三歳の時である)中に見た、最も美しい、最も単純な線であると讃嘆しているが、私は「ラスキンは不仕合せな男だなあ」と、いまだに思っている、北斎や広重の版画を見ずにしまった彼は、富士山の線の美しさを、夢想にもしなかったらしい、東海道の吉原から、岩淵あたりで仰ぎ見る富士山の大斜線は、向って左の肩、海抜三七八八米突から、海岸の水平線近く、虚空を縫って引き落している、秋から冬にかけた乾空には、硬く強く鋼線のように、からからと鳴るかと思われ、春から夏にかけて、水蒸気の多い時分には、柔々《やわやわ》と消え入るように、または凧《たこ》の糸のように、のんびりしている。地平線と水平線とを別として、我が日本国において見らるべき、有《あ》らゆる斜線と曲線の中で、これこそ最大最高の線であろうと、いつも東海道を通行するたびに、汽車の窓から仰ぎ見て、そう思わないことはない。
 私はいつか浅間山の追分ヶ原に遊んだことがあった、そこに若い学生が、浅間山を写生していた、すると今まで静かに茶褐色の天鵞絨《ビロード》に包まれて、寝ていたかと思われる浅間山が、出し抜けに起き出してでも来るように、ドンドンと物を抛《な》げ出す響きにつれて、紫陽花《あじさい》の大弁を、累《かさ》ねて打っ違えたような、むくむくと鱗形をした硫煙が
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