つういと、泳いでいる、そのおもてには、水々しい大根を切って落したような雲が、白く浮いている、梓川の水は、大手を切って、気持のいいように、何の滞《とどこおり》もなく、すうい、すーいと流れて行く、その両側の川楊は、梢と梢とが、ずーっと手をひろげて、もう今からは、誰も入れないというように「通せん坊」をして、そうして秘《ひ》っそりと静まりかえってしまう、日が暮れるに随って、梢はぴったりと寄り添って、呼吸《いき》を殺して川のおもてを見詰める、川水はときどき咽《むせ》ぶように、ごぼごぼと咳《せ》きこんで来る。
 かかるゆうべに、この美しい梓川の水に、微塵《みじん》も汚れのない、雪のように肌の浄い乙女がどこからともなく来て、裸体になって、その丈にあまる黒髪をも洗わせながら、浴《ゆあ》みをしようではあるまいか、何故といって、秘密の美しさは、アルプスの夕暮の谷にのみ、気を許して覗《うかが》わせるからである、そんなことを考えているうち、雲が一筋穂高山の中腹に横《よこた》わった、焼岳はと見ると、黒い雲が煤紫色にかかって、そのうしろから、ぽっかりと遠い世の物語にでもありそうな雲が、パッと赤く映る。
 嘉門次が
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