調子の緑が浮ぶように出る、弱い調子の青が裏切って流れる、印象派の絵画に見るような色彩の凹凸が、鮮明に流動している、私はそれに見惚《みと》れていたが、ふと足許を見ると、大きな款冬《ふき》の濶葉のおもてが、方々に喰い取られたような、穴を明けられ、繊維が細かい網を織っている、そうしてその網の一本一本に、例の灰が白くこびりついている、このような自然の虐げの怖ろしさを、閑谷に封じて、焼岳は今もなお、山の奥の方で、燃えさかっていることであろう。
谷は次第に浅くなって、河原は自分が突き出した古楊の根に、水を二筋に分け、二筋の流れは両岸の緑を※[#「酉+焦」、第4水準2−90−41]《ひた》し、空の色を映して、走って行く、日は錫のような冷たい光を放射して、雲は一団の白い炎になり、ぎらぎらと輝く、私たちは路を狭める籔《やぶ》を掻《か》き分けて行く、笹の葉から、蛾が足を縮めて、金剛杖の下にパタリと落ちた、それが灰のように軽かった。
岩魚止《いわなど》めの破れ小舎に、一と休みして、いよいよ徳本《とくごう》峠にかかる、河原が急になって、款冬や羊歯が多くなり、水声が下から追っかけて来る、頭の上は、枯木が目立って白く、谷間に咲くウツギの花も、ぼんやりと白く、空は匂いの高い焼刃に、吐息がかかったように、うす曇りになる、木立の中では、もう日暮に近くなって、うす暗いのであると思ったのに、木のないところへ来ると、空は日が未だ高くて、篩《ふるい》をかけたように、青葉の上に金光をチラリと流して、木の下道にのみ、闇がさまよっている。
しかしその金光も、いつまで永く見るわけには行かなくなった、霧が山の上をひたして烟のように、水沫《みなわ》のように、迷いはじめる、峠が高くなるだけ、白いシシウドや、黄花のハリフキが簇《むら》がって、白い幕の中で黄色い火を燈《とも》したように、うすぼんやりしている、この頃は山登りの人が多くなったと見えて、竹の皮や、脱ぎ捨てた草鞋が、散らばっている、白樺の裸の幹がすくすくと立って、三角の葉が頭の上でけぶるように、梢の傘をひろげている、朽の大木も多く見えて、浅青や濃緑がむらむらと波のように、たぎり返っている、峠の頂上は凹んで見えていながら、路は近そうで、幾度も折り返えしては登って行く、火事場の後のように、霧の煙はぼうぼうと、方々から白く舞いあがって、絶えるかとおもえばつづき、森の中を伸びつちぢみつして、消えて行く、水の声は夢の中からでも聞えるように、脚の下からのぼって来る、そうして、峠の頂に近くなったときは、霧がそぼそぼとして、細かい粒の雨が、バラつき出したが、それでも合羽《かっぱ》を出すまでには至らなかった。
根曲り竹や白樺の細路を、グングン登って行くと、向う側に見える山は、半分ばかり、この峠の影がのさばりかかって、喰い取られたように黒く蝕《むし》ばみ、上半分は夕日で黄に染まって、枯木にまで、その一端が照り添って、目眩《まぶ》しいように、顔を反《そ》むけたかと見えたが、またカッキリと白く、象牙のように夕の空に浮び出で、それが一本一本ハッキリとしたときには、黄な臭いような気分になった。
峠の頂には、黒檜《くろべ》や樅《もみ》や白樺が、こんもりと茂っている、その凹んだ鞍のような路から、左の小高い崖に登って向うの谷を見ると、大なる穂高山は、乱杭歯《らんぐいば》のような肩壁を張りつめて、奥の穂高とおぼしきは、一と際《きわ》高く黒縅《くろおどし》の岩石を空に抜き出で、御幣岳は最も近く峰頭を尖らせ、南の穂高は残りの雪がべったりと白く、北東へ向けては岳川岳の大障壁が出て、梓川の谷間へどっしりと重たく、幅を利かしている、鶯《うぐいす》はせせこましく、夕の空気をつん裂いて啼く。谷の中を、穂高岳を中心として、この山から去ろうとしては、思いを残しているような雲が、綿のように丸まって、穂高の肩にぶつかったが、女の子がちょいと投げた紙屑のように、そのまま無造作に辷《すべ》り落ちて谷へと消える、幾度も来たところではあるし、日も落ちて足許が暗くなるので、私はあわただしく峠の下り道を走って下りた、穂高のうしろに低く聳えた大天井《おてんしょう》岳と常念岳が、夕日の照り返しを受けて、萌黄《もえぎ》色にパッと明るくなっている、野飼いの牛が、一本路をすたすた登って来たが、そこには、逆茂木《さかもぎ》がしつらえてあるので、頭を低《た》れて、入ろうとしたが、入れそうもないので、恨めしそうに佇んで、ジッと見詰めている、私たちは逆茂木と牛の間に割り込んで、身を平ったく、崖につけて、牛をかわして、スタスタ下りる、振りかえれば、牛は追って来ようともしないで、夕暮の沈んだ空気の中に眼鼻も何もない黒いものが、むくむくと蠢《うご》めいている。
白樺の森も、梓川の清流も、眼に入らばこそ――足
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