なぎの腐蝕土はつや[#「つや」に傍点]を消したような光線で、うす暗くぼかされている。
林を全く離れて、正北を指さし、花崗《みかげ》の裸岩にかじりついたときには、いよいよ日本北アルプス中の絶大なる「岩石の王さま」へ人間の呼吸《いき》がかかるのだと思った、この岩壁は十町ほども、するすると延び上って、駭《おど》ろくばかり峻急なる傾斜は、天半を断絶して、上なる一端を青空の中へ繋ぎ、下なる一半を、深谷の底へと没入させている、岩石の散乱した間に、飛散した種子から生えたらしい、落葉松の稚樹《わかぎ》が、二、三本よろよろと、足許を覚束なげに立っている、顧れば焼岳の頂は凹字に刳《えぐ》られて、黄色い噴煙が三筋、蒲田谷の方へ吹き靡いている、私の立っているところは、もう向う側の霞沢岳の頂上に、手が達《とど》きそうになって、岳の右の肩に、三角測量標のあるのが、分明《ぶんめい》に見える、眼の下に梓川の水は、藍瓶《あいびん》を傾むけたような大空の下に、錆ついた鉱物でも見るような緑※[#「靜のへん+定」、第4水準2−91−94]《りょくてん》色になって、薄っぺらに延びている、それは流れているとは見えないのである、暫らく休んでいると、冷たい谷風が、下から吹きあげて、森は魂が入ったように、さやさやと靡いて、蒼玄《あおぐろ》い鬣《たてがみ》が這い上って来る、焼岳の左の肩を超えて、乗鞍岳の一角が見え初《そ》めた。
三
赤裸で残忍な形相をした石の路を、殆んど登りつめたところから、左へ切れこみ、前穂高岳の三角測量標を仰ぎながら、草原に入ると、傾斜はいよいよ峻急になって、岩菅の花が、火のように赤く、風露草のうす紫や、猪独活《ししうど》の白い花などが、その間に交って、ドス黒い岩壁へ、更紗を布いたように綺麗であるが、角度が急でややともすると、腹這いになる、美しい花が私の面を撲《う》って、甘酸っぱい匂いが、冴えた空に放散する、嶮しい岩角で、一足踏み辷《すべ》らすと、大変なことになると思いながらも、花の匂いが官能を刺戟して、うっとりと気が遠くなる、空は濃碧に澄んで、塵《ちり》っ葉《ぱ》一つの陰翳もなく、虻《あぶ》が耳もとで、ブンブン唸る。
嘉門次はふと草原を切り靡けたような、路のあるのを見出して、太い短かい杖で、猪独活をあしらいながら、「熊が通った路だあ」と言った、草はよほどの重量を、載せたよう
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