ように、蓬々としている。
 二合目で、今まで気が注《つ》かなかった山中湖が、半分ほど見えて来た、室は無論人はいないが、それでも明けッ放しになっている。なお登ると、二合二勺の室には水まで汲み込んだ樽が置いてあり、竈《かまど》の側には、薪が三把ほど転がっている、防寒具を整えて来なかったが、これで焚火《たきび》に事欠かないと解って、仮令《たとい》天候が悪くっても、泊る宿があるという気強さが、頓《にわか》に胸に溢れて来る。
 もう山を浸していた霧も、気温のために、方々から湯気のように蒸騰して、砂の息蒸《いきれ》の匂いが何処からともなくする、二合五勺に辿り着いた頃には、近くは勾玉《まがたま》状に光れる山中湖と、その湖畔の村落と、遠くは函根足柄を越えて、大磯平塚の海岸、江の島まで見えた。
 三合四合と登るほどに、黒砂は凝結したように、ポロポロと硬くなって、時に生れどころの解らない大霧が、斜面を這って、煙のように舞い立つこともあったが、五合へ来たときには、それも拭うように晴れて、北風が起り初めた、鳶が一羽、虚空に丸く輪を描いて山体の半分を悠揚と匝《め》ぐって、黒い点となって、遥かに消え失せた。
 頂上を仰ぐと、平ッたい赭渋色の岩の上に、黒く焦げた岩が、平板状に縞を作った火口壁が、手の達《とど》くほど近く見え、鉛のように胸壁に落ちている雪は、銀の顫《おのの》くように白く光って、叩けばカアンと音がしそうだ、空はもう純粋なるアルプス藍色となって、海水のように深秘に静まり返っている、仰いだ眼を土に落すと、岩も雪も、この色に透徹して、夏には見られない。冴え冴えと鋭い紫がかった色調が、凸半球の大気に流動している。
 六合目――宝永の新火口壁(いわゆる宝永山)まで来ると、さすがに高嶺の冬だと思われる冷たさが手足の爪先まで沁みて来る。これから上の室という室は、戸を厳重に密閉して、その屋上には、強風に吹き飛ばされない用心に、大塊の熔岩《ラヴア》が積み重ねられ、怖るべき冬将軍《ゼネラル・ウインター》の来襲に備えられている、下界はと見れば、大裾野の松林は、黒くして虫の這う如く、虎杖や富士薊は、赭黄の一色に、飴のようになって流れている、凡《すべ》てが燻《いぶ》されたようで、白昼の黄昏に、気が遠くなるばかりである。
 六合五勺にして、頬は皮膚病患者のように黄色になった、弟はと見れば、唇は茄子のように、うす
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