ク障るので、闇の中でも裾野を歩くという意識があるだけだ。町外れから、曲り拗《く》ねった路や、立木の暗い下を迂路《うろ》ついて、与平治茶屋まで来た。ここで水を飲もうとすると、犬が盛に吠える、「誰だあ、やい」戸の中から寝ぼけ声が聞える。勝又が名を言うと「山けえ」と老人らしい声がしたがそのまま寂《ひ》ッそりとする。「御馳走さまで」と、案内者は水の礼を述べて、いよいよ裾野の中へ入る。
 白い吹雪が大原の中を、点々と飛ぶ、大きく畝《う》ねる波系が、白くざわざわと、金剛杖に掻き分けられて、裾に靡く、吹雪は野菊の花で、波系は芒《すすき》の穂である。悪い雲が低く傾いて、その欠け間から月を見せる、立木の腹が、夜光の菌でもあるように、ボーツと白く明るくなった。
 知らぬ間に、爪先上りとなって、馬返しまで着くと思いがけなく村の男女が、四人ばかり籠をしょって、こっちを見ている。禁制の官林に潜り込んで、何か内密の稼ぎをするらしい。知ってる顔と見えて、案内者は薄明りに、二言三言挨拶をして行き過ぎる。
 明け行く夜は、暁天の色を、足柄山脈の矢倉岳に見せて、赤蜻蛉《あかとんぼ》のような雲が、一筋二筋たなびく、野面は烟《けむり》っぽく白くなって、上へ行くほど藍がかる、近処の黄木紅葉が、火でも点《とも》されたようにパッと明るくなる、足許の黒い砂には、今まで見えなかった楢の落葉や、松の繋ぎ葉などが、シットリと舐《な》められたように粘ッついている。朝日を反映さする金茶色の唐松と、輝やく紅葉――そのくせ、もう枯れ枯れに萎《しな》び返って、葉の尖《さき》はインキを注《さ》したように、黒くなって、縮れている――で、夏ならば緑一色のちょんぼりした林が、今朝は二、三倍も広くなったような気がする。曙の色は林の中まで追いついて、木膠や蔦の紅葉の一枚一枚に透き徹る明る味を潮《さ》して、朝の空気は、醒めるように凛烈《りんれつ》となった。
 中の茶屋へ着くと、松虫草の紫は、見る影もなく褪《あ》せているが、鳥冑草は濃紫に咲いている、そして金屏風を背後にした菊花のように、この有毒植物の、刺戟強い濃紫は、焼砂の大壁を背景にして、荒廃の中に、一点の情火を、執念《しつこ》くも亡ぼさずにいる。
 太郎坊へ着いて見ると、戸は厳重に釘づけにされ、その上に材木を筋交えに抑えにして、鋼線で結びつけてあるが、寂《ひ》ッそりとして、人の気はなく、案
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