菜の花
小島烏水

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)潰《つぶ》されて

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)やにこく[#「やにこく」に傍点]ても
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 市街に住まっているものの不平は、郊外がドシドシ潰《つぶ》されて、人家や製造場などが建つことである、建つのは構わぬが、ユトリだとか、懐《くつ》ろぎだとかいう気分が、亡《な》くなって、堪まらないほど窮屈になる、たとえやにこく[#「やにこく」に傍点]ても、隙間もなく押し寄せた家並びを見ていると、時々気が詰まる、もし人家の傍に、一寸《ちょっと》した畠でもあれば、それが如何《いか》に些細なものであっても、何だか緩和されるような気になる、そうして庭園のように、他所《よそ》行きの花卉《かき》だの、「見てくれ」の装飾だのがしてないところに、又しようとも思わない無造作のところに、思いさま両手を伸ばして欠《あく》びでもするような気持になれる。
 少なくとも、市街は接近した、もしくは市街を前景とした畠は、野菜を作って、食膳に供給するという実用的の意味に於てよりも、人間と人間との間に踏み固められない、柔かい黒い土を割り込ませて、庇の連続や、肱の突き合いを緩和させるという点だけで、保存して置きたく思う、そういう意味で、保存するとなれば、何も月末の八百屋の払いを、幾分か助けるつもりで、胡瓜や茄子を作る必要はない、黒土のままで残して置いて、春の温気が土のかおりを蒸し上げるのを、ぼんやり眺めていてもいいのであるが、それではあまりサッパリし過ぎるから、春ならば先ず私は、何を置いても、そこに菜の花を観たい。
 春の花の中でも、私はなぜか、梅や桜や、董《すみれ》だの蒲公英《たんぽぽ》だのよりも、その他の何よりも、菜の花に執着を持つ、少年の時代から、この花が好きで、野外遠足は、菜の花の多そうなところを選んで歩いたものだ、今でも春の景色と云うと、菜の花のそれが眼に浮ぶ、菜の畑の中に跼《かが》んで、虻《あぶ》のブンブン呻《うな》るのを聴きながら、本を読んだり、所謂《いわゆる》「空想」に耽《ふけ》ったりしたこともある(その時分は至ってセンチメンタルな気分を悦んだものだ、今でもとかく脱け切らないが)、東海道藤沢の松並木の間から、菜の花の上に泛《うか》ぶ富士山を、おもしろい模様画に見立てて、富士山と菜の花の配合などを考えたことがある、中にも私の好む菜の花の場所は、相模大山の麓、今は烟草《たばこ》の産地として名高い秦野付近で、到るところ黄の波を列《つら》ねていた――併し此頃往って見たら、それも大方桑畑などに変って、今じゃあ夢になった、近頃は不思議なほど、菜の花が郊外から影を隠した、物価も租税も高くなって、菜種の油などを、搾っていては、割に合わぬから、もっと金の儲かるものを植えるのに、何も不思議はないが、私は何だか、夢を喰われたような気がする。
 関西地方は知らず、東京横浜間や、その付近の郊外では、今では菜の花を見ると、珍しく振り返るほどだ、そうやって振り返るのも、私ぐらいなものかも知れない、大阪の郊外に住んでいる友人画家織田一磨氏は、「大阪付近では、到るところに金色をした菜の花の光が、太陽の光線を反射している、菜の花の盛りの時は、総《す》べての物が、皆黄色となる、反射光線の強いのは、ちょうど雪のようだ、そして黄色の野原の末に、紫に烟って見える遠山の色、悪くはおもわぬコントラストだ、そしてその黄色い海の内を、赤い絵日傘の娘が通る」と言って、大阪の自然の誇りにされたが、東京付近では、そういう自然は、もう見たくとも見られない。「菜の花や月は東に日は西に」「菜の花の中に城あり郡山」などいうのは、春げしきの中で、私が永久に保存したく思っている風景画である。
 人に依ると、あの花の馨《かおり》は、糞ッ臭いから、いやだと言うようだが、幸いに私の嗅覚は、それほど過敏でない故か、ちっとも苦にならないどころか、臭いからして、私はこの花が好きだ、梅の匂いのように上品でないかも知れないが、土臭いのが堪《た》まらなくいい。
 併しながら「亡び行く生物」の中に、この菜の花が、次第に加わるのではなかろうか、それとも都落ちの仲間に入って、次第に我等の付近から、影を隠してしまうのではあるまいか、場末の旅籠《はたご》屋などで、食膳の漬け菜の中から、菜の花の蕾《つぼみ》が交って出ることがあるが、偶然だけに、どんなにか私を悦ばすことだろう。
 私の机上には、有り合せの玻璃瓶に、菜の花が投げ込んである、これは弟に捜させて、採って来たものである、天鵞絨《ビロード》のように、手障りの柔らかな青い葉が、互い違いになって、柱のような茎を取りまいて居る、此柱の頭から、莟《つぼ》みが花傘なりに簇《むら》がって、蛹虫《さなぎむ
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