を、淡彩的に点描するのに巧みであった。武蔵野といえば、ただちに独歩の名作が連想されるが、花袋も紀行文家として「野の人」であった、武蔵野の人であった。私はなんのかのと、不足は言いながらも、しんみりと落ち着いた心持ちで、花袋が読めた。自然派勃興以後の花袋自身は、おそらく「こんなもの」と言うかもしれないが、私のすきな花袋は、やはり情緒綿々たる紀行文家の花袋である。
 しかし直接に文通したのは、少しく金の入用があったので、白峰《しらね》の紀行文を、花袋を通じて『太陽』に寄せたときが初めてであった。おかげで明治三十七年二月の『太陽』に掲載せられたのはいいが、どうしたものか、博文館から原稿料を送ってよこさない。「武士は食わねど高楊子」主義で突っぱった当時の青年文士は、いいかげんシビレを切らしても、原稿料の催促はしたくなかった。しかるにその年の秋も過ぎて、いよいよ手元切迫に及んだので、からめ手から催促するような手紙をやった。すると花袋からすぐ返事が来た。

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 拝啓 最早とうに稿料差上候事と存居候ひしに御手紙にて始めて知り、大に驚き申候、二三日の中に博文館の方にまゐるべく候間其
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