が、富士の白糸の滝のように、千筋《ちすじ》とまでは行かなくとも、繊細な糸を捌《さば》いて、たぎり落ちるところもある、「花茨《はないばら》故郷の路に似たるかな」が、ますます思い出される。
シッソンという寂しい停車場は、富士ならば、御殿場駅に当るところであるが、この方面から見たシャスタは、一座の尖《とが》れる火山にしか見えない、それが、シャスタの主峰であるが、汽車が北へ廻るに随って、いつの間にか、主峰の傍に、また一つの同じような火山が出て来る、それはシャスチナで、高さは日本の富士山と同じく、一万二千三百尺であるが、シャスタ主峰は、それよりも更《さら》に、約二千尺高く、海抜一万四千百六十二尺と註せられている。火口は、シャスタに一つ、シャスチナに一つ、その双峰《そうほう》を繋《つな》ぎ合わせるところの、プラットフォームにも、一つあるという話であるが、私はそれをよく知らない。シャスチナは、多分側火山として噴出したのが、一体の双生児のように、シャスタと癒合《ゆごう》したのだろうと思う。成立の原因は違っても、富士の愛鷹山《あしたかやま》の頂上部が、仮に爆裂飛散せずに原形を保存していたとすれば、シャスチナ位になっているかも知れない。
だが、シッソン、ウイードあたりから、仰ぎ見るシャスタの偉大さは、アルプス式の山々に見ることの出来ない鮮明美がある、孤にして閑である、独にして秀で、単にして完《まった》き姿である。日本アルプスでも、そうであるが、アルプス式の山は、高台の上に乗っかって、群峰になっているから、槍ヶ岳とか「マッタアホルン」とかいう特異の山形を除いたら、遠くからは、どれがどれやら、個々の山名がちょっと解り兼ねる場合もあるが、シャスタはそうでない、富士もそうである如く、一見|分明《ぶんみょう》である、足許《あしもと》から山上までの直径の高さは、モン・ブラン以上である(移民時代の一愛山家は、「シャスタに登ってモン・ブランを笑ってやれ」と言った)。その立体構成面の威嚇《いかく》的偉大さを、駭《おどろ》くべき簡単なる曲線で、統整して、しかも委曲に至っては、富士で謂《い》うところの八百八谷の線から、おのずと発生する凹凸面の、複雑なる入り乱れのために、眼もあやになることを如何《いかん》ともしがたい。
私たち一行四人は、九月九日の夕、シッソンに着いて、駅前のパアク・ホテルというのに泊った、目ぼしい商家といっては、よろず屋風の荒物屋と、鍛冶《かじ》屋があるくらいのもので、私は靴屋に案内してもらい、氷河に辷《すべ》らない用心に、裏皮を貼《は》りつけて、釘《くぎ》を打ってもらったが、旧式の轆轤《ろくろ》を使って、靴屋のおやじが、シュッ、シュッと、線香花火式にやってくれた。登山の準備をしたくも、碌《ろく》なものがないところで、この節の日本アルプスの登山口の、設備の方が、よほど行き届いているくらいだから、その貧弱さの、見当がつくであろう。
山麓帯の裾野で、日に焼けて、疲労をひどくしたくないので、定めの行程は短いにもかかわらず、翌十日は朝|出立《しゅったつ》した、馬を五頭、一頭は荷物を積んで、案内者の、チャアルス・グーチという男が、裸馬に乗り、アルペン杖を横たえながら、片手で荷馬車を曳《ひ》いて先登に立って行く。私は馬に慣れないので、少なからず閉口したが、同行中の神田憲君は、この仲間では馬術の達人で、ややともすれば遅れがちな私の馬の綱を、時々引いてくれた。
本街道から製材所の横を切れると、もう既に裾野であるが、富士のそれとは違って、乾《かわ》き切った砂漠で、セージと通称する白ッ茶けた草や、マンザニタと呼ばれるところの、灌木《かんぼく》などが茂って、馬蹄の砂が濛々《もうもう》と舞いあがるのには、馬上|面《おもて》を伏せて、眼をねぶるばかりであった。
それでも、森林帯に入るとさすがに涼しい、中でもシャスタ樅《もみ》と呼ばれる喬木《きょうぼく》の一種は、この山、特有とまでゆかなくても、この山の産として最も名高いのであるが、富士の落葉松《からまつ》を、富士松と呼ぶたぐいであるかも知れない。なお登ると、俗にホワイト・バーク・パイン(白皮松)と呼ぶ喬木が出てくる、高さは二百尺位に達するのは珍らしくはない。土地の人たちは、この森林帯の立派さを艶説《えんぜつ》しているが、レイニーア火山や、ベエカア火山の、それに競べると、さほどの物ではない。ホールス・キャムプという平地に出で馬を下り、野営の仕度をする、海抜九千尺、水も少しはある。今は(一九二二年の春から)このところに「シャスタ・アルパイン・ロッジ」という、立派な山小舎が建設されたそうで、毎年六月十五日から九月十五日まで「小舎開《こやびら》き」をやって、一年に四、五百人の宿泊者は、欠かさないという話であるが、私たちの登った頃には未だ小舎はなく、シェラ山岳会考案の「睡眠袋」を馬に積ませて来たので、蓑虫《みのむし》のように、その中にすッぽり潜《もぐ》り込んで寝たが、乾き切った小石交りの砂地の上で、日本アルプスのように、柔らかい草原を褥《しとね》にする贅沢《ぜいたく》は、思いも寄らず、睡眠不足が祟《たた》って、翌《あ》くる日の登山には、大分こたえた。
森林帯の尽きるところから、大雪渓が始まるが、この雪渓の長々しい傾斜は、さすがに白馬岳あたりの比ではない。翌くる十一日の朝、一行はこの単調の雪渓を、のたり、のたりと登って、巨大な堆石《たいせき》を戴いた雪の「テーブル」の側へ立って写真を撮ったり、雪の穴ぼこの中へ、更紗《さらさ》の紋でも切り篏《は》めたように、小さい翼を休めているところの、可憐《かれん》なる高山蝶を、いじくったりして、雪渓を、ものの三千五百尺ばかり登ると、富士山の胸突八丁にも喩《たと》えられるところの、火口壁へとぶつかった。これを越えると、絶頂に辿《たど》りつくことになるので、ここでさえ、高さは一万三千尺近い見当である。最後の噴火のあったという「レッド・ブラッフ」の赭《あか》ら岩が、眉《まゆ》を焦《こが》すばかりに、近く聳《そび》えている。足許《あしもと》一面に、熔岩や、焼石が狼藉《ろうぜき》して、歩きにくい。生憎《あいにく》時計を見ると、かれこれ午後二時に近い、空気も稀薄になり始めて、絶頂まで、遅々《ちち》たる足取りでは、今夜中にホテルまで、戻り得られるか否かも、覚束《おぼつか》ないので、ここから下山することにした。
シャスタへの登路は、氷河踏査を主とするならば、私たちの路を取らずに、南のマック・クラウド村から登るか、またはやや北行して、シャスタとシャスチナ間の、窪地《くぼち》を目指《めざ》して登る方が、よかったということを、後から聞かされた。後の路を取れば、九千尺の高度から、ホイットニイ氷河の末端が出現して、「クレッヴァス」や、堆石の状態がよく判明するということであった。
登山記としては、これだけだ。短くして、呆気《あっけ》ないのは、私も知っている、しかしシャスタ山は、我が富士山の如く、登る山であるが、同時に眺望する山だ。この山を中心にして、周囲の展望は変化する、大空へ掛けた額面として、横から見たり、裏返しに見られる山だ。
私は、その後、幾回となく、山麓を通過した、半周した、約四分の三まで廻《まわ》った。かくて視《み》たところを綜合して言えば、山の頸部は、三十五度の傾斜から、次第に緩和して二十度、十五度、十度と、延《の》んびりした線を、大裾野へ引き落し、末端は五度位にちぢんでいるが、富士山の如く、草山三里、木山三里、石山三里という割り当ては、シャスタには応用出来ない。草山は、まあいいとして、木山はシャスタでは、谷地帯《やちたい》になっているし、殊《こと》に石山に該当するところは、万年雪と氷河の喰い込みで、岩頸《がんけい》は、篦《へら》でえぐったように「サアク」の鈴成りが出来ているから、サアク帯と呼ぶ方が適当である、その「サアク」からは、言うまでもなく、氷河が流れていて、九千尺以上に五個あるという話であるが、私の望んだのは、ホイットニイ氷河と、南方のマック・クラウド氷河の二つである。前者は前にも述べた通り、シャスタとシャスチナの間の、鞍部《あんぶ》に懸垂《けんすい》しているが、アルプスのベルニーズ・オーバアラント山地あたりの大氷河に比べると、恐らく雛形《ひながた》ぐらいの小さいものだろうが、それでも擬似《ぎじ》氷河ではない。小さいなりに、完全な真氷河であることは、「クレッヴァス」の凹凸《おうとつ》が、かなりの遠くから肉眼でもハッキリと見えるし、大氷河でなくては、滅多に見られないところの、側堆石までを具備しているのでも伺われる、終堆石《しゅうたいせき》は弦《つる》の切れた半弓を掛けたように、針葉樹帯の上に、鮮明に懸《か》かっているのみならず、そこから流下した堆石は、累々として、山麓《さんろく》に土堤を高く築いている。ただ巨大な堆石が、現在見当らないのは、何分にも、氷河が小さく、谷の削り方も浅くて、「剥《は》ぎ取り」が、深く利《き》かないためであろう。もう一つのマック・クラウド氷河の方は、現在では最小の氷河であるが、山麓同名の村に、「マッド・クリーク」という小流があって、その岩壁には、氷河の引ッ掻《か》いた条痕《じょうこん》が、鮮明に残っているところを見ると、昔は今よりも、大きな氷河であったらしいことを示している。
要するに、シャスタの氷河は、この山の属するキャスケード山脈の最南端だけあって、キャスケードの氷河としては、一番小さいものであることに疑いはないが、仮に、富士山の氷河が成立したとしたら、あるいはまた、日本アルプスの劍岳や立山群峰が、もう五百|米突《メートル》も高くて、氷河の小塊が出来るという想像が、容《い》れられるとしたら、まあこんなものだろうと推測せられるだけに、何となく、捨てがたく思われるのである。
ここで、冒頭に戻って同じ言葉を繰りかえす、アメリカで好きな山は何かと聞かれると、一番先きに頭に浮ぶのは、シャスタ山である、それは必ずしも、好きであるからではないが、最も多く心を惹《ひ》かれる山であると。
終りに、この一文を、同行四人の中、馬術の達人であった神田憲君の霊前《れいぜん》に献《ささ》げる。同君は、その後帰朝して、過般の大震災で、鎌倉で圧死《あっし》の不幸に遭《あ》われた、他の二人は、野坂滋明君と国府精一君とである、今は米国と日本に別れていて、共に健在である。
底本:「山の旅 明治・大正篇」岩波文庫、岩波書店
2003(平成15)年9月17日第1刷発行
2004(平成16)年2月14日第3刷発行
底本の親本:「改造」
1929(昭和4)年7月
初出:「改造」
1929(昭和4)年7月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※初出時には副題「富士山との比較考察」がありました。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2010年2月3日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小島 烏水 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング