本道から折れて森の中に突き入る、この辺は草原で、野薊《のあざみ》、蛍袋、山鳥冑などが咲いている、幅の狭い川、広い川を二つ三つ徒渉《かちわたり》して、穂高山の麓の岳《たけ》川まで来ると雨が強くなった、登山をあきらめて引きかえすころは、濡鼠《ぬれねずみ》になってしまう、猟士は山刀《なた》を抜いて白樺の幹の皮を上に一刀、下に一刀|傷《きずつ》け、右と左の両脇を截ち割ってグイと剥《む》くと、前垂懸け大の長方形に剥《は》げる、頸の背骨に当るところを彎形《わんがた》に切り抜いて、自分の肩にかけてくれた、樺の皮で一枚合羽が出来たのはよいが、その皮には苔も粘《つ》いている、蘭科植物も生えていたから、後《うしろ》からは老木の精霊が、森の中を彷徨《さまよ》っているように見えたろう、雨は小止みになる。
 蒼黒い森を穿って、梓川の支流岳川は、鎌を研ぐように流れる、水の陰になったところは黒水晶の色で、岸に近いところは浮氷のような泡が、白く立っている、初めは水が流れている、後には水が水の中を駈け抜けながら人の足を切る、森には大石が多い、どの石も、どの石も、苔が多い、苔の尖った先には、一粒ずつの露の玉を宿している、暗鬱な森の重々しい空気は、白樺の性根の失せて脆《もろ》い枝や、柔嫩《じゅうなん》な手で人の脛《すね》を撫でる、湿った薇《わらび》や、苔や、古い落葉の泉なす液汁や、ジメジメする草花の絨氈《じゅうたん》やそんなものが、むちゃくちゃ[#「むちゃくちゃ」に傍点]に掻き廻されて、緑の香が強い、この香に触れると、雪の日本アルプスという感じが、胸に閃めく。
 今度はまた川になる、川の面は、呼吸《いき》も吐《つ》かず静まりかえっているように見えるが、足を入れると、それこそ疾風《はやて》が液体になったように全速力で走っている、流れの浅く、彎入した、緩やかなところに背を露わした石がある、苔が厚く活物《いきもの》の緑が蠢《うご》めいている、水草の動くのは、髪の毛がピシピシと流電に逆立つようだ。
 水の流れに、一羽のオツネン蝶が来た、水の上を右に左にひらりと舞う、水はうす紫の菫色、蝶は黄花の菫色、重弁の菫が一つに合したかとおもうと、蝶は水を切ってついと飛ぶ、水は遠慮なく流れる、蝶も悠々と舞う、人間の眼からは、荒砥《あらと》のような急湍《きゅうたん》も透徹して、水底の石は眼玉のようなのもあり、松脂《やに》の塊《
前へ 次へ
全13ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小島 烏水 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング