温泉宿を除いて、小舎が二戸ある、一つは徳本峠を下りると直ぐの小舎で、二間四方の北向きに出来ている、徳本の小舎というのがそれで、放し飼の牛馬を一頭|幾銭《いくら》という、安い賃金で、監督する男が住んでいる、川を渉って七、八町も行くと、この宮川の小舎へ出る。
ここは自分に憶い出の多い小舎である、六年のむかし、槍ヶ岳へ上る前夜、この小舎へ山林局の役人と合宿したとき、こういう話を聞いたからで。
飛騨の豪族、姉小路大納言良頼の子、自綱《よりつな》と聞えしは、飛騨一国を切り従えて、威勢|並《ならぶ》ものとてなかったに、天正十三年豊臣氏の臣、金森長近に攻められ、自綱は降人に出た、その子秀綱は健気《けなげ》にも敵人に面縛するを肯《がえ》んぜず、夫人や、姫や、侍婢、近侍と共に出奔した、野麦峠を越えて、信州島々谷にかかったころは、一族主従離れ離れになり、秀綱卿が波多《はた》へ出ようとするところを、村の人々に落人《おちうど》と見られて取り囲まれ、主従ここで討死をした、姫は父を失い、母にはぐれ、山路に行き暮れて、悩んでいるのを、通りがかりの杣人《そまびと》が案内を承ると佯《いつ》わり、姫を檜に縛《いま》しめ、路銀を奪って去った、ややありて姫は縛を解き、鏡を木の枝にかけていうことに、鏡は女子の魂ぞ、一念宿りてつらかりし人々に思いをかえさでやと、谷底に躍り入って水屑《みくず》となる、かの杣人途にて姫の衣も剥ぐべかりけりとほくそえみて木の下に戻れば、姫はあらで鏡のみ懸かれる、男ふと見れば、鏡のおもてに冷艶雪の顔《かんばせ》して、恨の眼《まなこ》星の如く、はったと睨むに、男|頓《とみ》に死んでけり、病める夫人は谷間へ下り立ち、糧にとて携えたる梨の実を土にうずめ、一念木となりて臨終の土に生いなむ、わが夫《つま》の御運ひらかずば、永《とこし》えに美《うま》き果《み》を結ぶことなかるべしと、終《つい》に敢えなくなりたまう、その梨の木は、亭々として今も谿間にあれど、果は皮が厚く、渋くて喰われたものでない、秀綱卿の怨念《おんねん》この世に残って、仇《あだ》をした族《やから》は皆癩病になって悶《もが》き死《じに》に死んだため、島々には今も姫の宮だの、梨の木だのと、遺跡を祀ってあるという。
囲炉裏に榾《ほた》をさしくべ、岩魚の串刺にしたやつを炙《あぶ》りながら、山林吏が、さっき捨てた土饅頭は何だね、と案内
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