ごろはどこまで来てござるか」
 と尋ねた時に、その老人は静かにこういいました。
「禅師さま、阿弥陀さまは、ただ今ここにおいでです」
 といって、老人はおもむろに自分の胸に手をあてたのでした。これにはさすがの白隠もスッカリ感心したという話が伝わっています。果たしてこれが、事実であったかどうか、詮索《せんさく》の余地もありましょうが、自力教の極端である禅宗と、他力教の極端である真宗とは、たといその説明方法においてこそ、異なりはあっても、結局はいずれも大乗仏教である以上、
「仏[#「仏」は太字]、我れにあり[#「我れにあり」は太字]」
 という安心においては、なんの異なりもないのです。

[#ここから2字下げ]
南無《なむ》といえば阿弥陀来にけり一つ身をわれとやいわん仏とやいわん
[#ここで字下げ終わり]

 です。念仏によるか、坐禅《ざぜん》によるか、信心《しんじん》によるか、公案(坐禅)によるか、その行く道程《みち》は違っていても、到着すべきゴールは一つです。

[#ここから2字下げ]
|宗論[#「宗論」は太字]《しゅうろん》はどちら負けても|釈迦[#「はどちら負けても|釈迦」は太字]《
前へ 次へ
全262ページ中236ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
高神 覚昇 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング