らずに、だまって愛の涙で抱擁してくれる人もほしいのです。

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この寒さ不孝者|奴《め》が居《お》りどころ
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 といった、愛の涙[#「愛の涙」は太字]もほしいのです。

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是れきりでもうないぞよと母は出し
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 小言をいいつつも、やはり、わが子かわいさに、財布《へそくり》の底をはたいて[#「はたいて」に傍点]、出してくれる、母の慈愛もほしいのです。不孝者奴と罵《ののし》りつつ、もうないぞよと意見しつつ、なおもわが子をば、慈愛の懐《ふところ》に抱いてくれる親の情けは、否定しつつ、肯定しているのです。智慧の涙[#「智慧の涙」に傍点]と、慈悲の涙[#「慈悲の涙」に傍点]、たといその表現の相《すがた》においては異なっておろうとも、その心持には、なんの違いもないのです。
 亡くなった老父のこと[#「亡くなった老父のこと」は太字] いまから二十数年前に亡《な》くなりました私の父は、こんな歌を私に残して逝《ゆ》きました。

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父は照り母は涙の露となりおなじ慧《めぐみ》にそだつ撫子《なでしこ》
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 誰《だ》れが詠《よ》んだ歌だか、私にはわかりませんが、たしかにかみしめ、味わうべき歌だと思います。厳父[#「厳父」に傍点]の心と、慈母[#「慈母」に傍点]の心を、一首の和歌に託して、現わした古人の心もちが、優にやさしく、また尊く思われます。今日、三人の子の父となった私には、今さらながら、亡くなった父の慈愛、母の情が沁々《しみじみ》と感ぜられるのです。「子を持って知る親の恩」とは、あまりにも、古い言葉です。しかし、やっぱり、子を持って知る親の恩です。子をもつことによって、はじめて私たちは、亡くなった親のありがたさ、もったいなさを、沁々と追憶するのです。だが、

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さればとて石碑《いし》にふとんもきせられず
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 です。なつかしい、恋しい、両親への追憶に耽《ふけ》るにつけても、私は、厳父の心、慈母の情を通じて、そこに哲学としての仏教[#「哲学としての仏教」に傍点]、宗教としての仏教のふかさ、尊さを、今さらながら見直しつつ、沁々と味わっているのであります。
 仏心と親心[#「仏心と親心」は太字] 話はつい横道へそれましたが、私どもの家庭の、この厳父の心を、そのままに写したのがあの不動明王という恐ろしい仏です。厳父に対する慈母の心を、そのままに現わしたのが、観自在菩薩《かんじざいぼさつ》というあのやさしい仏です。しかもそれはいずれも「同じ心の仏なりけり」です。いずれも「慈眼視衆生《じげんじしゅじょう》」の仏心の顕現《あらわれ》であります。古来、「|般若[#「般若」は太字]《はんにゃ》は仏の母[#「は仏の母」は太字]」だといっていますが、般若こそ、まことに一切の諸仏をうみ出す母です。諸仏出生の根源です。あの慈母の権化《ごんげ》、観自在菩薩が、深般若波羅蜜多《じんはんにゃはらみた》を行《ぎょう》じて、一切は空なりと観ぜられた、ということは、実にそこに深い意味があるのです。空を観じて空を行ずる。因縁を観じて因縁を行ずる。空観より空行へ、因縁観より因縁行へ、そこに哲学として仏教宗教としての仏教の立場があるのです。古聖が「色即[#(チ)]是[#(レ)]空と見れば、大智を成《じょう》じ、空即[#(チ)]是[#(レ)]色と見れば、大悲を成ずる」といったのは、まさしく、こうした境地を、道破したものであると思います。
 たいへん前置が長くなりましたが、すでにお話ししました「因縁」の原理や、ただ今申しましたその話をば、とくとお考えくだされば、これから申し述べることは、自然ハッキリわかってくるのです。さて、ここに掲げてある本文は要するに、「五|蘊《うん》」によって、作られている諸法《もの》はみな空である、という、その空の相《すがた》についていったものです。つまり眼に見える有形の物質と、眼に見えぬ無形の精神とが、集まってできている、この世界じゅうのあらゆる存在は、皆ことごとく空なる姿、すなわち「空なる状態」にあるのですから、生ずるといっても、何も新しく生ずるものではない。滅するといっても、すべてが一切なくなってしまうのではない。汚《きたな》いとか、綺麗《きれい》だとか増《ふ》えたとか、減ったとかいうが、それはつまり個々の事物に囚《とら》われ、単に肉眼によって見る、差別の偏見から生ずるのであって、高処に達観し、いわゆる全体的立場[#「全体的立場」は太字]に立って、如実《にょじつ》に、一切を心の眼でみるならば、一切の万物は、不生にして、不滅であり、不垢《ふく》にして、不浄であり、不増にして不滅だという
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