の中に、一つの古い井戸がありました。そしてその井戸には、一筋の藤蔓《ふじづる》が下の方へ垂《た》れ下がっていました。天の与えと喜んで、旅人は急ぎそれを伝って、井戸の中へ入ってゆきました。狂象はおそろしい牙《きば》をむいて覗《のぞ》きこんでいます。ヤレまあよかったと、旅人がホット一|呼吸《いき》していると、井戸の底には怖《おそ》ろしい大蛇《だいじゃ》が口を開いて、旅人の落ちてくるのを待っているではありませんか。駭《おどろ》いて周囲を見まわすと、どうでしょうか、四方にはまだ四|疋《ひき》の毒蛇がいて、今にも旅人を呑《の》もうとしています。命とたのむものは、たった一本の藤蔓です。しかしその藤蔓もです、よく見れば、黒と白の二疋の鼠《ねずみ》が、こもごもその根を噛《かじ》っているではありませんか。もはや万事休すです。全く生きた心地はありません。ところがです。たまたま藤蔓の根に作っていた蜜蜂《みつばち》の巣から、甘い蜜がポタリポタリと、一滴、二滴、三滴、「五滴」ばかり彼の口へ滴《したた》りおちてきたのです。全くこれは甘露のような味わいでした。そこで旅人は、もはや目前の怖しい危険をも、うち忘れて、ただもうその一滴の蜜を貪り[#「一滴の蜜を貪り」に傍点]求めるようになったというのです。
申すまでもなく、曠野《こうや》にさ迷うその旅人こそは、私どもお互いのことです。一疋の狂象は、「無常の風」です。流れる時間です。井戸とは生死の深淵《しんえん》です。生死《しょうじ》の岸頭《がんとう》です。井戸の底の大蛇は、死の影です。四疋の毒蛇は私どもの肉体を構成する四つの元素(地、水、火、風の四大)です。藤蔓とは、私どもの生命です。生命の綱です。黒白二疋の鼠とは、夜昼です。五滴の蜂蜜とは、五欲の事です。官能的欲望です。まことにひとたび、この巧妙な人生の譬喩を聞いたならば、波斯匿《ハシクノク》王ならずとも、トルストイならずとも、まざまざ「人生の無常」を感ぜずにはおれないのです。無常の恐怖に戦慄《せんりつ》せずにはおれないのです。そして、「求道の旅人」とならざるを得ないのです。
さとりの世界[#「さとりの世界」は太字] 次に第三の真理は「滅諦《めったい》」です。「滅」とは生滅の滅で、ものがなくなるということです。ただしここにいう滅とは、苦を解脱したさとりの世界、すなわち「涅槃《ねはん》」のことをいうのです。で、滅の真理すなわち「滅諦」とは仏教の理想である涅槃と同じ意味のことばです。ところで、なにゆえに「涅槃《さとり》」のことを「滅」というかというに、元来「涅槃《ねはん》」の梵語《ぼんご》は、ニイルヴァーナで、「吹き消す」という意味なのです。何を吹き消すか、何を滅するか、といえば、いうまでもなく、苦を吹き消し、「苦」を滅することであります。ところが一般にはさようには解釈されないで、かえって肉体を吹き消し、身体を滅すること、即ち「人間の死」とか、「虚無」とかいうことに考えられているのです。ちょうどあの「往生」ということばが、「死」ということ、と同じように思われているごとく、「涅槃《ねはん》」とか、「成仏《じょうぶつ》」などといえば、死と同一に考えられているのです。しかし、もともと「死」と「涅槃」とは異なっているのです。人間苦の根本となっている「無明」を滅したことが、この「涅槃」です。
「貪欲《どんよく》永《なが》く尽き、瞋恚《しんに》永く尽き、愚痴永く尽き、一切の諸《もろもろ》の煩悩《ぼんのう》永く尽くるを、涅槃という」
と『雑阿含経《ぞうあごんぎょう》』には書いておりますが、とにかく、無明《まよい》の心を解脱して、苦を滅し尽くした境地が、滅諦《めったい》すなわち涅槃です。あの「いろは[#「いろは」は太字]」歌[#「歌」は太字]でいえば、「あさきゆめみじ、ゑひもせず」という最後の一句は、「寂滅為楽《じゃくめついらく》」という「涅槃《ねはん》の世界」をいったものです。「あさきゆめみじ」とは、あさはかな夢をみないということです。「ゑひもせず」とは、無明の酒に酔わされぬということです。つまり「酔生夢死」をしないということで、つまり涅槃《さとり》の世界に安住するその気持を歌ったもので、ボンヤリ一生を送らないということです。
あの謡曲の「三井寺」や、長唄《ながうた》の「娘|道成寺[#「娘|道成寺」は太字]《どうじょうじ》」の一節に、
「鐘にうらみが数々ござる。初夜の鐘をつく時は、諸行無常と響くなり。後夜の鐘をつく時は、是生滅法《ぜしょうめっぽう》と響くなり。晨朝《じんじょう》は生滅滅已《しょうめつめつい》、入相《いりあい》は寂滅為楽《じゃくめついらく》と響くなり。聞いて驚く人もなし。われも後生の雲はれて、真如《しんにょ》の月を眺《なが》めあかさん」
とありますが、「初
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