その聴衆の中に、一人の念仏信者のお爺《じい》さんがありました。禅師の話を聞きつつ、しきりに小声で、お念仏を唱えていました。禅師は提唱を終わってから、その老人を自分の居間に呼んで、試みに念仏の功徳を尋ねてみたのです。
「いったいお念仏はなんの呪《まじな》いになるか」
 と問うたのです。その時に老人の答えが面白いのです。
「禅師、これは凡夫《ぼんぷ》が如来《ほとけ》になる呪《まじな》いです」
 というのです。そこで白隠は、
「その呪いはいったい誰が作られたか、阿弥陀《あみだ》さまはどこにおられる仏さまか。いまでも阿弥陀さまは極楽にござるかの」
 といって、いろいろと念仏信者の老人を試《ため》したのです。すると老人の答えが実に振るっているのです。
「禅師さま、阿弥陀さまは、いまお留守です」
 と、こういったのです。阿弥陀さまはいま極楽にいないという答えです。留守だという不思議な答えを聞いた白隠は、さらに、
「しからばどこへ行ってござるか」
 と追及しました。その時老人は、
「衆生済度《しゅじょうさいど》のために、諸国を行脚《あんぎゃ》せられています」
 と答えました。そこで禅師は、
「では今ごろはどこまで来てござるか」
 と尋ねた時に、その老人は静かにこういいました。
「禅師さま、阿弥陀さまは、ただ今ここにおいでです」
 といって、老人はおもむろに自分の胸に手をあてたのでした。これにはさすがの白隠もスッカリ感心したという話が伝わっています。果たしてこれが、事実であったかどうか、詮索《せんさく》の余地もありましょうが、自力教の極端である禅宗と、他力教の極端である真宗とは、たといその説明方法においてこそ、異なりはあっても、結局はいずれも大乗仏教である以上、
「仏[#「仏」は太字]、我れにあり[#「我れにあり」は太字]」
 という安心においては、なんの異なりもないのです。

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南無《なむ》といえば阿弥陀来にけり一つ身をわれとやいわん仏とやいわん
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 です。念仏によるか、坐禅《ざぜん》によるか、信心《しんじん》によるか、公案(坐禅)によるか、その行く道程《みち》は違っていても、到着すべきゴールは一つです。

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|宗論[#「宗論」は太字]《しゅうろん》はどちら負けても|釈迦[#「はどちら負けても|釈迦」は太字]《
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