した。「資本家の搾取」、それが彼らのスローガンなのでした。それが彼らの一枚看板[#「一枚看板」に傍点]でした。だからその苦の内容は、どこまでも物質でした。経済的でした。語《ことば》を換えて申しますならば、その苦は内よりくるものではなくて、外よりきたものでした。だが釈尊は、これと正反対の立場から、苦の原因を説いているのです。
「実の如く苦の本[#「苦の本」に傍点]を知るとは、いわく現在の愛着の心は、未来の身と欲とをうけ、その身と欲とのために、更に種々の苦果を求むるなりと知る」(中阿含経《ちゅうあごんぎょう》)
すなわち苦の原因は欲[#「欲」に傍点]です。欲こそ苦の本[#「欲こそ苦の本」は太字]です。しかし欲は苦の根源だといっても、私どもは無条件にそれを認めることはできません。なんとなれば、欲はまた歓楽[#「欲はまた歓楽」に傍点]の根源でもあるからです。で、問題は欲そのもの、欲望自体ではなくて、「愛着のこころ」、「執着のこころ」、「囚《とら》われのこころ」が、つまり苦の原因なのです。すなわち人間のもつ普遍的欲望、すなわち五欲そのものが、苦悩の原因ではなくて、ただ、食欲とか、色欲(性欲)とか、睡眠欲とか、財産欲とか、名誉欲のみが、歓楽の根本であると妄信《もうしん》して、これに愛着し、これに執着するこころが、苦の原因だと釈尊はいわれているのです。しかもその五欲に愛着し、執着することは、結局、「因縁」の道理を知らないがためです。すなわち、一切は空であり、無我であることを知らない、無知の無明《まよい》から起こるわけです。ですから所詮、一切の苦の根本は欲であり、欲望に対する執着ではありますが、そのまた根本はつまり無明にあるわけです。無明とは、「十二因縁」の根本となっている、あの無明です。さて五欲について思い起こすことは、『譬喩経《ひゆぎょう》』のなかにある「|黒白[#「黒白」は太字]《こくびゃく》二|鼠[#「二|鼠」は太字]《そ》」の譬喩《たとえ》です。それは非常に面白い、いや深刻な譬喩で、ロシヤの文豪トルストイも、スッカリ感激したきわめて意味ふかい話です。それはこうです。
むかしあるところに一人の旅人がありました。広い野原を歩いていた時、突然、狂象に出逢《であ》いました。おどろいて逃げ去ろうとしましたが、広い広い野原のこと、逃げ隠れる場所とてはありません。しかし幸いにも野原
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