住むこの世界は、あたかもさかんに燃えている火宅である、という釈尊のこの体験こそ、尊い人間苦への警告だったのです。苦諦の真理に対する目覚めだったのです。かくてこそ、
[#ここから2字下げ]
如来《ほとけ》はすでに三界の火宅を離れて
寂然《じゃくねん》として閑居《げんご》し、林野に安処せり
今この三界は、皆是れ我|有《もの》なり
その中の衆生は、悉《ことごと》く是れわが子なり
しかもいま此処《ここ》は、諸《もろもろ》の患難《うれい》多し
唯《た》だ我一人のみ、能《よ》く救護《くご》をなす
[#ここで字下げ終わり]
という、われらに対する、仏陀《ぶっだ》の限りなき慈悲の手は、さし伸べられたのではありませんか。
人生への第一歩[#「人生への第一歩」は太字] まことに「人生は苦なり」という、その苦の真理に目覚めることこそ、宗教への第一歩ではないでしょうか。しかし、所詮《しょせん》、第一歩はあくまで第一歩です[#「第一歩はあくまで第一歩です」に傍点]。それは決して宗教の結論ではないからです。宗教の全部ではないからです。いや、それは宗教への第一歩であるばかりではありません。苦の認識こそ、ほんとうの人生に目覚める第一歩なのです。すなわち「苦」という自覚が機縁になって、ここにはじめてしっかりした地上の生活がうちたてられてゆくのです。したがって「苦の自覚」をもたない人は、人生の見方が浅薄です。皮相的です。「最も苦しんだ人のみ、人の子を教える資格がある」というのは、それです。お坊っちゃん育ちは、とかく何事を見るにつけ、するにつけ、みんな浅薄です。あさはかです。子供を育てる場合でも、このこつ[#「こつ」に傍点]が必要です。「かわいい子には旅させよ」とは、たしかに味わうべきことばです。
苦の原因[#「苦の原因」は太字] 次に第二の真理すなわち「集諦《じゅうたい》」とは、つまり人生の苦は、どこから起こるかというその「原因」をいったものです。すなわち「苦諦《くたい》」を、いま人生はどうあるかの問題に対する説明とすれば、「集諦」は、「なにゆえにそうであるか」の問題に対する説明ということができましょう。英語でいえばホワット(何か)とホワイ(なにゆえ)といってもよいでしょう。つまり「なにゆえに人生は苦であるか」という、その苦のよって来る原因の説明が、この「集諦」です。苦を招き集めるもの、いわ
前へ
次へ
全131ページ中66ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
高神 覚昇 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング