。理窟《りくつ》からいえば、母胎を出でた瞬間から、もはや墓場への第一歩[#「第一歩」に傍点]をふみ出しているのです。だから応《まさ》に生に啼いて、死を怖るること勿れです。死ぬことが嫌《いや》だったら、生まれてこねばよいのです。しかしです。それはあくまで悟りきった世界です[#「悟りきった世界です」に傍点]。ゆめと思えばなんでもないが、そこが凡夫で、というように、人間の気持の上からいえば、たとい理窟はどうだろうとも、事実[#「事実」に傍点]は、ほんとうは、生は嬉《うれ》しく、死は悲しいものです。「|骸骨[#「骸骨」は太字]《がいこつ》の上を|粧[#「の上を|粧」は太字]《よそ》うて花見かな[#「うて花見かな」は太字]」(鬼貫)とはいうものの、花見に化粧して行く娘の姿は美しいものです。骸骨のお化けだ、何が美しかろうというのは僻目《ひがめ》です。生も嬉しくない、死も悲しくない、というのはみんな嘘《うそ》です。生は嬉しくてよいのです。死は悲しんでよいのです。「生死《しょうじ》一|如《にょ》」と悟った人でも、やっぱり生は嬉しく、死は悲しいのです。それでよいのです。ほんとうにそれでよいのです。問題は囚われない[#「囚われない」に傍点]ことです。執着しない[#「執着しない」に傍点]ことです。あきらめることです。因縁と観ずることです。けだし「人間味」を離れて、どこに「宗教味」がありましょうか。悟りすました天上の世界には、宗教の必要はないでしょう。しかしどうしても夢とは思えない、あきらめられない人間の世界にこそ、宗教が必要なのです。しかもこの人間味を、深く深く掘り下げてゆきさえすれば、自然《おのずから》に宗教の世界に達するのです。自分の心をふかく掘り下げずして、やたらに自分の周囲を探《さが》し求めたとて、どこにも宗教の泉はありません。まことに、
「尽日春を尋ねて[#「春を尋ねて」は太字]春を得ず。茫鞋《ぼうあい》踏み遍《あまね》し隴頭《ろうとう》の雲。還り来って却《かえ》って梅花の下を過ぐれば、春は枝頭に在って[#「春は枝頭に在って」に傍点]既《すで》に十分[#「に十分」に傍点]」(宋戴益)
です。
「咲いた咲いたに、ついうかされて、花を尋ねて西また東、草鞋《わらじ》切らして帰って見れば、家じゃ梅めが笑ってる」
です。一度は、方々を尋ねてみなければ、わからないとしても、「魂の故郷[
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