笑ふことが出来ずあんな苦しかつたことはないよ。
何か二人の失敗談だつて。
それはあるさ、しかし失敗談は他人にも話せず、また女房にも話せない様なものばかりだ。さうさな、罪のない失敗談といふと、本因坊と私と外に二人ほど、同勢四人で下総の古河に遊びに行つたことがあつた。
たぶん桃見に行つたかと思ふんだが、その時一杯やる積りで上りこんだ家が、田舎によくあるだるま茶屋といふ奴さ。茨城県は遊廓がなかつたと思ふんだが。そのせゑか田舎の小料理屋には、大抵だるまといふ酌婦を置いてあるんだ。
その家も酌婦が五六人ゐてネ、その中にひとり三十五六の大年増がゐたんだよ。それが水が垂れる様な濡羽色の大丸髷、なかなか色ツぽい女なのだ。
私達も酒がだんだんまはつてくるし、するとその女が盛んに本因坊に秋波を送るんだ。本因坊も悪い気はせず、さしつさゝれつして呑んでゐると、私のそばにゐた女が私にちよつとゝ耳うちするんだ。
「何だツ!」
と言ふと、袖をひくんで部屋の外に出てみると、女はいきなり、
「彼の大年増を何だと思ふ?」
と言ふんだ。
「何だつて、女だらう、まさか化物ぢやないだらう」
と言ふと、
「いえや、慥かに化物だ」
と言ふんだ。で私も喫驚してネ。
「どうして化物だ」
訊くと、
「あの大丸髷はかつらで、ほんとうは台湾坊主で、つるつるさ」
「でも、内密で、言つちやいけない」と言ふんだが、まさかさうと知つては黙つてはゐられないから、私も本因坊をそつと呼び出して、
「あの女はいけないよ。化物なんだから」
といま聞いたそのまゝを言ふと、本因坊も不思議さうに、
「どうして?」
「台湾坊主で、あの丸髷はかつらなんだ」
と言ふと、吃驚してネ、そのまゝ酔も何もさめ果てゝしまつて、
「帰らう、帰らう」
と言つて、どんどん帰り仕度して、女のとめるのを振りもぎる様にして、逃げて来たことがあつたよ。
まア、これ位にしてをかうよ。あんまりお喋べりすると、また夢の中に出て来て、
「関根さん、あんまり脱線してはいけませんよ」
なんて言はれるからネ。あゝ、あんな傑物はもうなかなか出て来ないだらうな。私は寂しいよ。
底本:「日本の名随筆 別巻11・囲碁II」作品社
1992(平成4)年1月25日初版発行
底本の親本:「日本評論」1940年3月号
入力:葵
校正:柳沢成雄
2001年8月24日公開
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