本因坊と私
関根金次郎
−−
【テキスト中に現れる記号について】
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)土地/\の
−−
本因坊もたうとういけなかつたネ。全く惜しいことをした。寂しいかつて?そりや、本因坊と私は四拾年近い交際だからな普通の友達つきあひにしたつて三十年、四十年となると仲々難しいのに、馬が合つたと言はうか、二人ツきりの水入らずで、よく旅行もしたし、睾丸も見せ合つた仲だからネ。
男の交際と言ふものは、羽織袴の交際だけじや駄目なものだよ。素ツ裸になつてお臍の穴から睾丸まで見せ合ふやうにならなくつては。何処で最初に見せ合つたつて?アツ、ハツハツハ‥‥‥馬鹿な、日光へ二人ツきりでいつた時かなア。一緒に風呂に這入つたからネ。
初めて二人が交際し出したのが、私が芝の松本町に住んでた時分だ。芝公園の裏手にあたる処で、近所に仲間の井上義雄八段も棲んでゐた。
その頃本因坊は既に名人だつたが、私はまだ八段で、名人になれるかどうかも皆目判らない時分さ。だから囲碁の名人、将棋の名人だから仲が良いといふ訳ではないんだ。さきに言つた様に馬が合つたのさ。
本因坊はどツちかと言ふとだんまりでむつつり屋、なかなか経済的にもしつかりしてゐたが、私は御承知の様に、ぱアツとしてる方だから、まして若い時分は興に乗れば着てゐる羽織でも着物でも脱いでみんなやつてしまふといふ性格だから、まア陰陽がうまく合つたんだネ。
似てる処か! さうさな、後では碁将棋の名人同志、後先変わらないのは、女好き位のところかネ。アツ、ハツハツハ‥‥‥。
だが、本因坊のえらい処は、何事にも熱心なところだ。どちらかと言ふと器用な性で、将棋、聯珠、大弓、弓なんかあの痩せつぽちの小さな体躯をしながら相当強いのを引いたからネ。術なんだらう。懲り出すと何でもある程度に達するまで、そりや熱心なんだ。
将棋がさうだつた。素人初段位の腕前があつたが、本職の碁を打つと同様に、よく考へて決して一手も苟しくもしないといふ態度なんだ、あの位の程度ならまア一時間もかゝればせいぜいなのに、本因坊のは考へ込むので二時間も三時間もかゝつた。
これに閉口して将棋会なぞに顔を見せると、
「まア、あなたはお強いんだから見てゐて頂きませう」
なんて敬遠され勝だつたよ。この熱心の態度だな。私は黙つてそばで見てゐて、いつも敬服してゐた。
いちばん最後に逢つたのは、築地の魚利といふ料亭だつた。去年の十一月頃で、その時分喘息で大分弱つてゐたらしいが、それでも酒一本半位呑んだかな。
妙に懐かしがつて、帰りに自動車で私の家のところまで送つて来て呉れた。私の家の隣りの隣りが米内総理の今度のお宅だが、自動車がそこまで這入るんで、そこで車をとめ、私を見送つて、
「関根さん、体を大事にしておくんなさいよ」
と声をかけ、
「俺よりもあんたが」
と笑つて別れた。あれが最後の別れになつた。
熱海へ行くとその時も言つたので、私の知つてゐる家を紹介したが、そこの家へ行つたかどうだか。亡くなつたと聞いたのでよつぽど熱海まで迎えに行かうかと思つたが、丁度折悪しく、私も風邪を引いて寝てゐたので、行けなかつた。残念したよ。
それでもこつちの告別式に出かけて行つたが、流石にいろんなことを考へ出して、ヂーンと涙が出さうだつた。しばらく電柱に凭れてゐたよ。
私が明治元年生まれの七十三歳、本因坊は私と六ツ違ひだつたから六十七歳、まだまだこれからと言ふところだからネ。
私の健康法として何でも無理をしてはいかん。私なんか風邪を引くとほとんど治るまで幾日でも凝乎家の中にこもつてゐる。柳に雪折れなしと言はうか、将棋でも無理筋を指すと、王様が頓死する様なことがあるからネ。何でも凝乎辛抱してゐるのが肝腎だ。五十前なら女でも酒でもいくらやつても平気だが、六十七十となると、気をつけなければいけないよ。お蔭で今年は喘息も大分いい。
本因坊にはどこか無理があつたんだな。正直だからネ。死ぬ前には体重が八貫メ欠けてゐたといふよ。いくら小男だつて、拾貫メ欠けちや心細いだらう。
小男に就いちや面白い話があるんだ。本因坊が台湾に出かけていつた時、何処かの宿屋で盗賊に逢つて、身ぐるみ持つていかれてしまつたんだ。囲碁の名人だつたのであつちの警察でもいろいろ心配して呉れてその結果暫らく経つて犯人が捕つた。どこから足がついたかと言ふとネ、古着屋からなんだ。本因坊は五尺に満たない小男だから、そんな子供みたいな着物は、ざらにはないからネ。それですぐ知れたのだ。盗んだ泥棒も定めし苦笑してたらうな。
私は本因坊が死んでから二度夢を見た。ゆうべも本因坊の夢を見たよ。
何でもどつかの料理屋みたいな処で二人‥‥‥、六七人の芸者や半玉に
次へ
全3ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
関根 金次郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング