手数将棋
関根金次郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)手数《てかず》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)上田|愛桂《あいけい》
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 ついでに手数《てかず》将棋といふものを紹介しておかう。
 この手数将棋といふのは、五十手なら五十手、百手なら百手――その約束した手数のあひだで、相手をつめてしまはなければならないのである。
 芝居のなかの若い衆に、芝兼《しばかね》さんといふ人がゐた。若い衆といつても、年のころは五十がらみで、小屋のなかで弁当やら酒などをはこんできてサービスする商売であつたが、この芝兼さんは迚《とて》も将棋が好きで、その芝居の暇さへあれば、浅草、神田、日本橋といつた具合に、将棋の会所のあるところをぐるぐる廻つて将棋ばかりさしてゐた。ところが、下手の横好きといふ言葉の標本のやうに、将棋は下手糞であつたが、たゞこの手数将棋だけは素晴しくうまく、殆《ほとん》ど歯の立つものがゐなかつた。
 そして、この芝兼さんは攻める方でなく、守る方であつた。普通の将棋がヘボかつたので、これなら訳《わけ》はないと思つてみんなナメてかゝるのだが、それがまた芝兼さんのつけ込みどころで、大抵の相手は手数将棋で戦《たゝかひ》を挑んだが最後、コロリコロリとまかされてしまふのである。
 とにかく、五十手なら五十手と約束する。そのあひだに芝兼さんを詰ましてしまはなければならないのであるが、こちらばかり指してゐるわけではなく、相手も一手に対して一手だけはさしてくるのだから、駒をつつかけて来られればその相手をしてとらねばならなかつたり、また王手をかけられれば体をかはさなければならなかつたりして、十手やそこら無駄されてしまふのは訳はないのである。しかも、芝兼さんは自分の陣営を堅固に守つては、さういふチヨツカイを出してくるのだから、始末にわるい。
 いまの寺田梅吉六段のお父さんの、寺田浅次郎五段もなかなかこの手数将棋の名手であつたが、この手数将棋といふものは見てゐてもなかなかおもしろく、攻める方が五十手なら五十、六十手なら六十といつた具合に、最初に約束しておいただけの手数の数の碁石をもつてゐて、攻める方で一手させば、守る方では、「はい、一つ。」と、その碁石を一つづつもらつて行くのである。
 攻める方は、せつかちな人ほどいけない。うつかりして一手さ
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