諏訪湖畔冬の生活
島木赤彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)蓼科山《たてしなやま》となり、

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)上下|睫毛《まつげ》の

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「木+累」、第3水準1−86−7]《かんじき》
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 富士火山脈が信濃に入つて、八ヶ岳となり、蓼科山《たてしなやま》となり、霧ヶ峰となり、その末端が大小の丘陵となつて諏訪湖へ落ちる。その傾斜の最も低い所に私の村落がある。傾斜地であるから、家々石垣を築き、僅かに地を平《な》らして宅地とする。最高所の家は丘陵の上にあり、最底所の家は湖水に沿ひ、其の間の勾配に、百戸足らずの民家が散在してゐるのである。家は茅葺か板葺である。日用品小売店が今年まで二戸あつたが、最近三戸に殖えた。その他は皆純粋の農家である。
 山から丘陵、丘陵から村落へとつづく木立が、多くは落葉樹であるから、冬に入ると、傾斜の全面が皆露はになつて、湖水から反射する夕日の光が、この村落を明く寒くする。寒さが追々に加はつて、十二月の末になると、湖水が全く結氷するのである。
 湖水といふても、海面から二千五百尺の高所にあるのであるから、そろそろ筑波山あたりの高さに届くであらう。湖水よりも猶《なお》高い丘上の村落は厳冬の寒さが非常である。朝、戸外に出れば、鬚《ひげ》の凍るのは勿論《もちろん》であるが、時によると、上下|睫毛《まつげ》の凍著を覚えることすらある。斯様《かよう》な時は、顔の皮膚面に響き且つ裂くるが如き寒さを感ずる。
 信濃南部の松本地方、諏訪地方、伊那木曾地方は、冬に入つて多く快晴がつづく。雪が少く、空気が乾いて、空に透明に過ぎるほどの碧さを湛《たた》へる。皮膚に響くが如き寒さを感ずるのは、空気が乾いてゐるためである。殊に、諏訪地方は、信濃の他の諸地方に比して更に高所にあるから、寒さの響き方がひどいのである。寒さを形容するに響くといふ如き詞を用ひ得るは、空気の乾燥する高地に限るであらう。南信濃、殊に私の住んでゐる諏訪地方などには、この詞が尤《もつと》もよく当て嵌《は》まるのである。
 この頃になると、湖水の氷は、一尺から二尺近くの厚さに達することがある。それ程の寒さにあつても、人々は家の内に蟄して、炬燵《こたつ》に臀《しり》を暖めてゐることを許されない。昼は氷上に出て漁猟をする人々があり、夜は氷を截《き》つて氷庫に運ぶ人々がある。氷庫といふのは、程近い町に建てられてある湖氷貯蔵の倉庫である。
 この頃、私の村では、毎朝未明から、かあんかあん[#「かあんかあん」に傍点]といふ響が湖水の方から聞えて来る。これは、人々が氷の上へ出て、「たたき」といふ漁をするのである。長柄の木槌で氷を叩きながら、十数人の男が一列横隊をつくつて向うへ進む。槌の響きで、湖底の魚が前方へ逃げるのを段々追ひつめて予《あらかじ》め張つてある網にかからせるのが「たたき」の漁法である。私の家は、村の最高所にある。庭下の坂が直ぐ湖氷に落ちてゐるのであるから、一列の人々を見るには、可なり俯《ふ》し目《め》にならねばならぬ。俯し目になつた視線が、氷上の人まで達する距離は可なりあるのであるが、氷上の人の槌を揮《ふる》ふ手つきまで明瞭に見える。氷を打つ槌先が視覚に達する時、槌の音はまだ聴覚に達しない。次の槌を振り上げるころに漸《ようや》く槌音が聞こえる。それで、槌の運動と音とが交錯して目と耳へ来るのである。目に来るものも、耳に来るものも微に徹して明瞭である。単に夫《そ》ればかりではない。一列の人々の話までも手に取るやうに聞えるのである。空気が澄んでゐる上に、村が極めて閑静であるからである。
 村の人々は、又、氷の上へ出て「やつか」といふ漁猟をする。諏訪湖の底は浅くて藻草が多い。人々は、夏の土用中に、沢山の小石を舟に積んで行つて、この藻草へ投げ入れて置く。土用の日光に当てた石は、寒中の水にあつても、おのづから暖みが保たれると信ぜられてゐるのであつて、実際、凍氷の頃になると、魚族は多くこの積み石の間に潜むのである。それを捕へるのが「やつか」の漁法である。その積み石をも「やつか」といひ、「やつか」の魚を漁《と》ることをも「やつか」と言ひ做《な》らしてゐるのである。「やつか」の所在は、「やつか」を置いた漁人にあつて何時でも明瞭である。氷の上に立つて、湖水の四周から、嘗《か》つて記憶に止め置いた四個の目標地点を求れば足るのである。二個づつ相対する地点を連れぬる二直線は、必ずこの「やつか」の上で交叉することを知つてゐるからである。交叉の地点を中心として、半径四五尺の円を劃して氷を切
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