たち二人の真の幸福について考えつゝあるのだ。
半ヶ年前に、失恋の痛手を負った僕は、その後世間の交渉を絶って、研究室に閉じこもり、ひたすら生理学的研究に従事した。それからというものは、研究そのものが僕の生命であり、又恋人であった。時には、雨の日の前に古い肋膜炎の跡が痛み出すように、心の古傷も疼《うず》き出すことがあったが、何事も過去のことゝ諦めて、研究に邁進し、やっと近頃悲しい記憶を下積にすることが出来、君たちの結婚の日取までうっかり忘れるところであったが、先日はからずも、ある人から、君が愈《いよい》よ明日結婚するという手紙を貰い、それがため、下積みにされた記憶が、非常な勢《いきおい》で浮《うか》み上り、遂に今回の贈り物を計画するに至ったのである。
君は実業家であるから、科学者なるものがどんな生活を営み、どんなことを考え、どんな研究を行って居るかということを恐らくは知るまいと思う。外見上では、科学者の生活はいかにも冷たいものであり、又その研究事項はいかにも殺風景極まるものであるが、真の科学者は常に人類同胞を念頭に置き、人類に対する至上の愛を以て活動しつゝあるのであって、従って、真の科学者には――似而非《えせ》科学者はいざ知らず……恐らく、誰よりも温かい血が流れて居るべき筈である。実際誰よりも温い血が流れて居なくては真の科学者たることは出来ないのだ。
さて僕が、失恋の痛苦を味ってから選んだ研究題目は何であるかというに、君よ、笑うなかれ、心臓の生理学的研究だ。然し僕は、ブロークン・ハートに因《ちな》んで、この題目を選んだ訳では決して無い。それほどの茶気は僕には無いのだ。破れた心臓の修理を行うために、先ず心臓の研究に取りかゝったと言えば頗《すこぶ》る小説的であるが、僕はたゞ、学生時代から心臓の機能に非常に興味を持って居たから、好きな題目を選んだのに過ぎない。ところがこの偶然選んだ研究題目がはからずも役に立って、君の一生に最も目出度かるべき儀式に、恋愛曲線を贈り得るに至ったのである。
恋愛曲線! これから愈《いよい》よ恋愛曲線の説明に移ろうと思うが、その前に一言、心臓が普通どんな方法で研究されて居るかを述べて置かねばならない。心臓の機能を完全に知るためには、心臓を体外へ切り出して検査するのが最もよい方法である。心臓は、たといこれを体外へ切り出しても、適当な条件を与うれ
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