ちどまった。車掌は早くもその人の足に眼を注ぎ、
「おや、あなたは、両足とも右の靴をはいているじゃありませんか」といった。
 その人はうつむいてしばらくの間足許をながめていたが、はじめて気のついたような表情をしていった。
「や、これはどうも、ついその……」
「この靴があなたのでしょう?」と車掌は手にしていた靴をその人の前に差出した。
「いかにもそれが私のです」と、その人は顔を紅くして答えた。
 車掌の顔には疑惑の色が浮んだ。こいつ怪しい人間だと思ったのであろう。急に真面目な態度になっていった。
「でも、おかしいじゃありませんか、他人《ひと》の靴をはいて、それに気がつかぬとは?」
「いや、全く申し訳がありません。何しろ……」
「申し訳がないではすみませんよ、こういう間違いは、偶然な間違いとは考えられませぬから」
「でも間違いにちがいないのだから勘弁して下さいよ。わたしは今|手洗《ちょうず》に行って来ただけです」
「そりゃね、いつもなら、笑ってすまされますけれど、何しろ、今二等車にある事件が起きたのですから、御面倒でも一寸車掌室に来て下さい」
 その人は急に顔を蒼くした。
「それじゃ、納得の行くようにここで申し上げよう。実はわたしは、片眼が不自由なんです」
 こういって、その人が色眼鏡を取ると、右の眼のつぶれた跡が悲惨な姿をしていたので、私は非常に気の毒な思いがした。
 然し車掌はなおも得心しなかった。
「けれど、他人の靴か自分の靴かは足の感じでわかるではありませんか」
「それがその私の左足は義足なんです」
 こういって、その人は、洋袴《ズボン》をまくって見せようとしたので、車掌は始めて顔を和げ、
「もう、それには及びませんよ。いやどうも失礼しました」
 こういって車掌は靴を置いて、逃げるようにして去った。しかしその人は別に怒った顔もせず、再び私の前に腰掛けていった。
「あなたのを間違えたのでしょうか、大変失礼しました。何しろ不具《かたわ》ものですから、どうか御ゆるしを……」
「どう致しまして」と、私はあわてて制していった。「さぞ御不自由で御座いましょう。とんだ御心配かけまして却《かえっ》て恐縮です」
 それから私が手洗をすまして帰って来ると、その人は棚の上の信玄袋から、梨と小刀《ナイフ》を取り出し私にもすすめた。私はその好意を謝し、内心では、それまでその人の人相のよくないことに疑惑を抱いたことを恥じて、遠慮なく、御馳走になった。母や妻子のことで一ぱいになっていた頭に、この時はじめて余裕を生じ、それと同時に、私はその人に対して一種の興味を感じはじめた。というのは、私は、いわば直感的にその人が何か深い因縁で、不具者になったように思えたからである。
「どちらまで、御越しで御座いますか」とその人は私に向ってたずねた。
「母が危篤だという電報を受取ったので、名古屋まで帰るところです」
「そうですか。それは御心配で御座いますな。いやもう、そういう時の御心持には十分同情が出来ますよ。私はいま家内の遺骨を携えて家内の郷里の大津まで行くところです」
 私はそれをきいて何となくぎくりとした。そうして思わずもその人の顔を見つめた。
「御母さんの御病気のときに、こんな縁起のわるい御話をしては大へん失礼でしたな」
「いいえ、私は縁起とか何とかを決して信じません」と私は笑いながら答えた。
 するとその人は急に真面目な顔つきをして言った。
「私も以前は、縁起だとか、物の祟りだとかを信じなかったのですが、こうして家内に死なれたり生れもつかぬ不具者《かたわもの》になったりしますと、やはり、そういうことを信じないではいられなくなりましたよ」
 私はこの言葉をきくと妙な感じに襲われた。というのは、平素私は迷信を一切排斥していたのであるが、今日母の危篤の電報を受取ってからというものは、何となく迷信を斥《しりぞ》けることが出来ぬようになって、実をいうと先刻、この人から、妻の遺骨云々のことをきいたとき、何だか母が死んでしまいそうな気がしてならなかったからである。
「奥さんは最近におなくなりになりましたか」と、私はしんみりした気持になってたずねた。
「ちょうど五十日|前《ぜん》になくなりました」といってその人は悲しい表情をした。私はこんなことをきかねばよかったと思い、話題をかえるつもりで、
「失礼ですがあなたは戦争にでも御出になって負傷なさったので御座いますか」と、たずねた。
 するとその人は更に一層悲しそうな表情をしていった。
「妻のなくなった同じ日に眼と足に負傷したのですよ。ですから、まだ義足をはき馴れてもおらず先刻はとんだ失敗をしたのです」
 私はその時、その人の悲しみに同情するよりも、私の予想が当ったような気がして、その人の不具となった事情がききたくてならなかった。し
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