傍に立って居た妻君の眼から、涙がぽたぽたと診察室のリノリウムの上に落ちた。真夏の午後のなまぬるい空気が、鳴きしきる蝉の声と共に明け放った窓から流れこんで来た。私は男の背後に立って、褐色の皮膚に蔽《おお》われた肋骨の動きと共に、ともすれば人間の顔のように見える肉腫の、ところどころ噴火口のように赤くただれた塊《かたまり》の動くのを見て、何といって慰めてよいか、その言葉に窮してしまった。
患者は私の方を振り向こうともせず、俯向きになって言葉を続けた。
「それについて先生、どうか私の一生の御願いをきいて下さいませんか」
「どんな願いかね? 僕で出来ることなら何でもしてあげよう」と、答えて、私は患者の前の椅子に腰を下した。
患者の呼吸は急にせわしくなった。
「きいて下さいますか。有難いです」と、御辞儀をして「お願いというのは他ではありません、このできもの[#「できもの」に傍点]を取って頂きたいのです」こういって彼は初めて顔をあげた。
私はこの意外な言葉をきいて、思わず彼の顔を凝視した。
まだ三十を越したばかりの年齢《とし》であるのに、その頬には六十あまりの老翁《ろうおう》に見るような
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