した肉腫が頭となって、全体が恰《あだか》も一種の生物の死体ででもあるかのように、血に塗《まみ》れて横たわって居た。患者の顔には、無力にされた仇敵《きゅうてき》を見るときのような満足な表情が浮び、二三度その咽喉仏《のどぼとけ》が上下した。彼の眼は、二の腕以下の存在には気づかぬものの如く、ひたすらに肉腫の表面にのみ注がれた。
 凡《およ》そ三分ばかり彼は黙って見つめて居たが、急にその呼吸がはげしくなり出した。ヨードホルムのにおいが室内に漂った。
「先生!」と彼は声を顫《ふる》わせて叫んだ。「手術に御使いになった小刀を貸して下さい」
「え?」と私はびっくりした。
「どうするの?」と細君も、心配そうに彼の顔をのぞき込んでたずねた。
「どうしてもいいんだ。先生、早く!」
 私は機械的に彼の命令に従った。二分の後私は、手術室から取って来た銀色のメスを盆の上に置いた。
 すると彼は、つと、その左手をのばして、肉腫を鷲づかみにした。彼の眼は鷲のように輝いた。
「うむ、冷たい。死んでるな!」
 こういい放って彼は細君の方を向いた。
「お豊? この繃帯を取って、俺の右の手を出してくれ!」
 この思いもよらぬ言葉に私はぎょっとした。はげしい戦慄が全身の神経を揺ぶった。
「まあ、お前さん……」と、細君。
 それから怖ろしい沈黙の十秒間! その十秒間に患者は、自分の右手が切り離されて眼の前にあることをはっきり意識したらしかった。
「ウフ、ウフ……」
 うめき[#「うめき」に傍点]とも笑いとも咳嗽《せき》ともわからぬ声を発したかと思うと、彼は突然その唇を紫色に変え、がくりとして看護婦の腕にもたれかかった。その時、彼の左手は身体と共に後方に引かれたが、左手の指が肉腫の組織に深くくい込んで居たため、切り離された右手は、盆をはなれて白布の上に引っ張り出された。
 そうして、五秒の後、断末魔の痙攣が起った時には、その右手も共に白布の上で躍って、あたり一面に血の斑点を振りまいた。



底本:「怪奇探偵小説名作選1 小酒井不木集 恋愛曲線」ちくま文庫、筑摩書房
   2002(平成14)年2月6日第1刷発行
初出:「新青年」博文館
   1926(大正15)年3月号
入力:川山隆
校正:宮城高志
2010年3月14日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http
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