たものである。
 患者は始めて笑うことが出来た。
 弾丸のために笑いの中枢が冒されていたのであるから、逢う人々を逆立ちさせて、患者を笑わせようとした鬼頭博士の考は、根本的に誤っていたのである。しかし、博士の計画は、偶然にも患者を笑わせることに成功した。
 それにしても、逢う人々や犬までも逆立ちせしめた文字は何であろうかと助手が、名刺を拾って検《しら》べて見ると、そこには、
[#天から4字下げ]レンズとスリガラス
と書かれてあった。
 なるほどこの二つをもってすれば、あらゆるものは逆立ちする筈である。

       五

 右の次第であるから、二重人格者河村八九郎の、人格交替の時間短縮をさまたげるために、鬼頭博士が推薦されたのも当然のことであった。
 博士は、両親に連れられて来た八九郎を診察し、その病歴を委《くわ》しくきいてから、両親に向って言った。
「なに大丈夫ですよ。たとい人格交替の時間が極度に縮められても、元来、大星由良之助と高師直はお芝居の人物ですから、ただ大星が師直を殺す真似事をするだけですよ。本当に死にはしないから、安心なさい」
 けれども、両親の不安は去らなかった。
 母親は言った。「御芝居でも身がはいると、殺す真似をして本当に殺してしまうことがあるときいております。ですから、念のために、由良之助から、師直に移る時間を長くして下さいませ」
「残念ながら、交替の時間が極度に短縮されるまで、これを防ぐ方法はありません」
 母親は顔色を変えた。父親は歯を喰いしばった。
「しかし」と、博士は続けた。「その交替時間が極度に短縮されたとき、たった一つ、時間をのばす方法があるのです」
 両親は忽《たちま》ち元気づいた。「どうぞそれを教えて下さいませ」と、口を揃えて頼んだ。
「よろしい。では処方を書いてあげましょう」
 こう言って博士は紙片に次の文字を書いた。
[#天から3字下げ]高速度映画撮影機
[#地付き](「新青年」昭和二年十一月号)



底本:「探偵クラブ 人工心臓」国書刊行会
   1994(平成6)年9月20日初版第1刷発行
初出:「新青年」博文館
   1927(昭和2)年11月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2007年8月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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