粘稠《ねんちゅう》な塊が出来かかった。患者は熱心にそれを見つめて、いつ自分の腕が虹になるであろうかと不思議がっているらしかった。
やがて博士は、その粘稠な塊を皿の上にのせ、それを水にとかした。そうして、竹の管《くだ》の先にその溶液をつけるなり、管の一方を口に当てて静かに吹いた。
球が拡がると、美しい虹が管の先にあらわれた。
「有難う御座います」
こういって患者は泣き出した。彼はそれほど満足したのである。
いう迄もなく、博士は、患者の腕を煮て石鹸《シャボン》を作ったのである。
三
ある時、一人の患者は、腰から下が石になったといい出した。
そう信ずるなり、彼は脚《あし》を上げることも出来なければ、また歩くことも出来なかった。
助手たちは、何とかして彼を歩かせようとしたけれども、すべての試みは無駄であった。せめて片一方の脚だけでもあげさせることが出来れば、石になったという信念を打ち破ることが出来るからと思って、色々苦心して見たが、少しも成功しなかった。
「君たちは、患者の脚を上げさせて、患者の信念を打ち破ろうとするからいけない。先ず患者の信念を別の信念に置きかえて、脚を上げさせ、次でもとの信念を破るようにすればよい。精神病治療にあっては、すべての妄想は他の妄想をもって打ち破る外はない」
こう博士に諭《さと》されても、助手たちは如何なる妄想を患者に起させてよいかわからなかった。
「よし。では、患者をここへ運んで来たまえ」と、博士は言った。
やがて患者は石のごとく運ばれて来た。博士は助手や看護人を去らしめて患者と二人きりになり、催眠術をかけて、患者の妄想を、他の妄想に置き替えた。
「これで、脚を上げるようになるよ」
博士は人々を呼び入れて、患者を運び去らせながらこう言った。
助手たちは、患者の室に集って、果して、患者が脚を上げるだろうかどうかを気づかいながら、熱心に患者を見まもった。
数十分間は何ごともなかった。
と、患者は、その右の脚を、すうっと高くあげた。
助手たちは感嘆の声を発した。
が、それと同時に患者は、「小便がしたい」と言った。
排尿の間、患者は上げた脚をおろさなかった。
すると、想像力の発達した一人の助手は叫んだ。
「わかった、わかった。先生は、患者の妄想たる石を犬に置き換えたんだ」
いかにもその通り、鬼頭博士は、患者をして、腰から下が犬になったと信ぜしめたのである。
四
このような博士の治療法も、時として失敗することがあった。
ここに述べるのはその失敗談の一つであるが、博士はこの例に於てその治療計画に失敗したとはいえ、事実に於ては治療の目的を達したのである。
ある時、入院患者の一人がピストルで脳天を打った。
もとより彼は自殺するつもりであったが、額に水平にピストルの筒を当てて引《ひき》がねを引けばよかったものを、奇を好んで、てっぺんから垂直に打ちこんだため、弾丸《たま》は脳の中へはいって、笑いの中枢を冒《おか》しただけで、生命には別条なかったのである。
かくて患者は笑うことが出来なかった。けれども、自殺を図るような憂鬱な患者にとって、笑うことは、何よりも必要である。
だから、助手たちは、患者を笑わせることも苦心した。
けれども、どのような方法を講じても、患者は笑わなかった。へんな仕草をして見せたり、脇の下をくすぐるような常套手段から、亜酸化窒素吸入のごとき化学的方法まで講じたけれど、効はなかった。
そこで最後に、助手たちは、患者を鬼頭博士のところへ連れて行った。
博士は暫らく考えていたが、やがて、名刺の裏に何やら書いて、患者に渡して言った。
「この文字を、君、誰にでもよいから見せたまえ。きっとその人は君が笑わずにおれぬ姿をするよ。その代り君は決して、この文字を見てはならない」
患者は病室にかえるなり、早速他の患者に名刺の文字を見せた。
すると、それを見た患者は、その場に逆立ちした。
普通の者ならば、その姿を見て必ず笑う筈であるのに、患者は笑わなかった。
けれどもその事は患者の好奇心をそそった。彼は看護婦が来るのを待って、名刺の文字を見せた。
すると看護婦もその場でピンと逆立ちした。
それでも患者は笑えなかった。けれども、好奇心は拡大された。
そこで、彼は、庭園を犬をつれて遊んでいた子供に近より、名刺の文字を見せた。
すると、子供も犬もその場で逆立ちした。
けれども、患者はやはり笑えなかった。反対にその好奇心は極度に達して博士が見てならぬといった言葉を冒して、名刺を裏返して、その文字を読んだ。
読むなり、自分もその場でくるりと逆立ちするを余儀なくされた。
が、逆立ちすると同時に、脳の中へはいっていた弾丸が抜け落ち
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