が、蛇に噛ませて死骸を醜くする訳はなからうといひ、且《か》つ其の身体の表面に何の痕跡もなかつたら、毒蛇に噛ませたとしたら、何か痕《あと》が無くてはならぬといふのである。然し、やはりクレオパトラが毒蛇に自身を噛ませて死んだとした方が彼女の臨終に相応《ふさ》はしいやうに思はれる。
 偖《さて》、毒蛇に噛まれたら、身体はどんな状態を呈するかを事の序《つひで》に述べて見よう。毒蛇に噛まれたとき其の歯の痕は正確に認めることの殆《ほとん》ど出来ない程小さい。ただし其の部の痛みは非常であつて、見る間に膨《は》れ上《あが》り、赤くなり痛みは愈《いよ/\》甚《はなは》だしくなる。若《も》し致死的の量が体内に入つたならば、暫《しばら》くの間に腫脹《しゆちよう》は拡がり水泡を作り、皮膚は破れて大なる壊疽《ゑそ》を生ずる。精神は少しく譫呆様《せんばうやう》になり、顔面は苦悶の表情を呈し、脈搏は早く且《かつ》弱く呼吸は促迫し恰《あだか》も窒息時のやうな様子を示している。次《つい》で深い昏睡状態に陥り、呼吸は徐々となつて絶命するのである。然し噛まれた局所には別に変化なくして、精神を冒されて死ぬ場合も報告されてある。かやうな場合は毒性の極めて強い毒が極少量に入つた場合であるらしい。クレオパトラの死も此《この》後者の場合と見れば差支なからう。又多くの探偵小説作家が毒蛇による殺人を書くときは、何れも普通に起る前者のやうな症状は書かないで、極めてさつぱりした死に方を書いて居る。
 テオフラスツスは昔、毒蛇に噛まれたときの特効薬として音楽を挙げて居る。古代には実際音楽を蛇に噛まれた者に聞せたものらしい。然しそれで果してよく治療し得たや否やは勿論疑問である。現今では血清学上の研究が進み、毒蛇に対する治療血清も出来て居るが、何分急劇に症状を発するので、治療血清の注射が多くは時期を失する。



底本:「日本の名随筆 別巻78・毒薬」作品社
   1997(平成9)年8月25日第1刷発行
底本の親本:「小酒井不木全集 第一巻」改造社
   1929(昭和4)年6月
入力:加藤恭子
校正:菅野朋子
2001年4月26日公開
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