とがある。肺結核の初期には却って精神的活動を促すが、後にはやはり弛緩状態を起すらしい。慢性腎臓炎などは弛緩が著しい。そこで僕は先生が何か病気に罹《かゝ》られたのではないかとも思ったことがあるけれど、やはりそうではなく、俊才に生理的に起る憂鬱状態と見るのが至当だったのだ。
 今になって見れば、もっと他の、学者としては最も当然な、且《か》つ最も高尚な悩みもあったのだが、それはむしろ原因ではなくて、単にその時期に併在《へいざい》したと見るのが至当であろう。いずれにしても、毛利先生は、先生自身でもどうにもならぬ、況《いわ》んや僕等の何とも仕ようもない憂鬱に陥ってしまわれたのである。
 ところが、その憂鬱からはからずも脱し得られるような事情が起ったのだ。後から見ればそれが一時的のものであって、毛利先生はその後更にはげしい憂鬱に陥られたが、若し、先生の論敵で、先生と共に、日本精神病学界の双璧といわれて居る狩尾博士が脳溢血で頓死《とんし》されなかったら、あのまゝ従前の活動状態に復帰されたかも知れぬ。そうして、ことによったら、先生の死もこれほど早くには起らなかったかも知れぬ。が、今はもう悔んでも及ばな
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