い。又、僕の愚痴をならべて君を退屈させても相済まぬ。で、先生を一時的に憂鬱から救った事情を早く物語ろうと思う。言う迄もなく、それが即ち、北沢事件なのである。
 K君。
 北沢事件は、その当時、新聞に委《くわ》しく報ぜられたから、君も大体は知って居るであろう。三十七歳の実業家北沢栄二は郊外に、文化住宅を建て、夫人政子と二人きりで、全然西洋式に暮して居たのだが、今から二月前の十月下旬のある日、夫人の留守中に書斎でピストル自殺を遂げた。その日夫婦は午後一時に昼食をとり、それから間もなく夫人は買物に出たが、色々手間どって五時半頃に帰ると、良人は書斎の机の前に椅子と共に、床の上に血に染まって死んで居たので、驚いて電話で警察へ報じたのである。
 取調べの結果、机の上には遺書と見るべきものが置かれてあって、他殺らしい形跡が毫《すこし》も認められなかったので、翌日埋葬を許可された。普通ならば火葬にさすべきであるのに、特に埋葬にせしめたのは、遺書と見るべきものが、本人の自作の文章ではなくて、本人の自筆ではあるけれど、先年自殺した青年文学者A氏の「或《ある》旧友へ送る手記」の最初の一節をそのまま引き写したものだったからである。つまり警察では、そこに後日の研究の余地を存《そん》せしめて置いたのだ。
 すると果して約一ヶ月の後、警察へ投書があった。それは「北沢栄二の死因に怪しい点がある」とのみ書かれたハガキであるが、それがため警察がひそかに未亡人を監視《かんし》すると、未亡人は、緑川順という年若き小説家の愛人があるとわかり、愛人の家宅を突然捜索すると、ちょうど北沢が自殺に用いたと同じピストルが発見され、なお当然のことであるが、「遺書」の載って居るA氏の全集もあったから、警察は謀殺の疑いありとして、未亡人と緑川とを拘引し、死骸の再鑑定を僕等の教室へ依頼して来たのだ。
 鑑定の依頼に来たのは、警視庁の福間警部だった。僕等にはお馴染の人である。僕は警部から鑑定の要項と一切の事情とをきゝ取って、発掘して運ばれた死体を受取り、福間警部をかえして毛利先生の部屋をたずねたのだった。その日は今にも雨の降りそうな、変に陰鬱な天気だったせいもあるが、先生の顔には常にないほどの暗い表情が満ちて居た。僕が書類を手にしてはいって行くと、先生は読みかけた雑誌をそのまゝにして顔をあげ、
「また鑑定かね?」と、吐き出すように言われた。
「はあ」
「どんな」
 そこで僕は、福間警部からきいた一切を物語ったが、一年前ならば、眼を輝かして聞かれたであろうに、而《しか》も自殺か他殺かという鑑定の結果によっては二人の生命が左右されるほどの重大な事件であるのに先生はたゞフン、フンといってうなずかれるだけで、悪くいえば、まるで他事《よそごと》を考えて居られるのではないかと思われるような、味気ない態度であった。僕が語り終ると、
「それで、鑑定の事項は?」
「三ヶ条です。第一は胃腸の内容から、死の起った時間を決定すること。第二は現場及び遺書の血痕が自然のものか、又は人工的に按排《あんばい》された形跡があるか否や、第三はピストルが、どれほどの距離で発射されたかと言うのです」
「その遺書をそこに持って居るかね?」
 僕は紙袋に入れられた遺書を取り出して、先生に差出した。それは二つに折られた水色のレター・ペーパーで、外側には数個の血痕が附着し、中側にペンで「或旧友へ送る手記」の最初の一節が書かれてあった。くどいようであるけれども、後の説明のために、その全文を書いて置こう。
[#ここから2字下げ]
 誰もまだ自殺者自身の心理をありのままに書いたものはない。それは自殺者の自尊心や或《あるい》は彼自身に対する心理的興味の不足によるものであろう。僕は君に送る最後の手紙の中に、はっきりこの心理を伝えたいと思っている。尤も僕の自殺する動機は特に君に伝えずとも善《よ》い。レニエは彼の短篇の中に或自殺者を描いている。この短篇の主人公は何のために自殺するかを彼自身も知っていない。君は新聞の三面記事などに生活難とか、病苦とか、或は又精神的苦痛とか、いろいろの自殺の動機を発見するであろう。しかし僕の経験によれば、それは動機の全部[#「動機の全部」に傍点]ではない。のみならず大抵は動機に至る道程を示しているだけである。自殺者は大抵レニエの描いたように何の為に自殺するかを知らないであろう。それは我々の行為するように複雑な動機を含んでいる。が、少くとも僕の場合は唯《たゞ》ぼんやりした不安である。君は或は僕の言葉を信用することは出来ないであろう。しかし十年間の僕の経験は僕に近い人々の僕に近い境遇にいない限り、僕の言葉は風の中の歌のように消えることを教えている。従って僕は君を咎《とが》めない。……
[#ここで字下げ終わり]
 先生はそれ
前へ 次へ
全11ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小酒井 不木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング