接に北沢事件だとも言い得るのだ。
尤もそれは先生の死の直前の極度の憂鬱のことをいうのであって、すでにその以前から、毛利先生は憂鬱だったのだ。僕はちょうど五年間先生に師事したが、最初の四年間先生は文字通り快活で、疲労というものを少しも知らぬ学者だった。五十を越した人と思われぬ黒い髪と、広い額と窪んだ眼と、かたく結んだ唇とは、見るからに聡明な性質を表わして居たが、ことに先生が、法医学的の、又は精神病学的の鑑定を行われる態度は、襟《えり》を正しくせずに居《お》られぬほど厳粛なものだった。それもその筈だ。先生の鑑定の結果は、単に一個人の生命に関係するばかりでなく、社会にも重大な影響を与えるから、いわば人智の限りを尽して携《たずさ》わられたのである。而《しか》も、そうした義務的観念から熱心であったばかりでなく、心からの興味をもって従事されたのである。
ところが過去一ヶ年ほど、どうした訳か先生は、以前ほど仕事に興味を持たれなくなった。どんな小さな鑑定にも、必ず自分の息を吹きかけねば気の済まなかった先生が、近頃はほとんど我々助手に任せきりだった。任せきりだとはいうものゝ、鑑定書には必ず眼をとおされ、助手の手にあまるような問題には決して労力を惜まれなかったが、どう観察しなおしても、以前ほどの熱はなく、教室でぼんやり時を過されることが度々であった。後進を引き立てるために、わざと手をつけることを差控えるようにせられたのかとも思って見たけれど、決してそうばかりではなかった。というのは、先生の顔にだん/\憂鬱の影がさして来たからである。
僕ははじめ先生の憂鬱の原因を、何か先生に、世間普通の心のなやみが生じたためではないかと考えたよ。甚《はなは》だ失礼ながら、独身の先生のことだから、恋愛問題にでも直面されたのではないかと思って見た。もちろん今はその邪推を後悔して居るが、とに角、一時はそうとでも考えるより他はなかったのだ。ところが、だん/\観察を深めて行くと、それが全部ではないけれど、一種の倦怠とも見るべき状態だとわかったのだ。どうもこの倦怠という言葉は甚だ坐りが悪いけれど、他によい言葉がないから、致し方なく使用するのだが、いわば、精神活動の一種の弛緩《しかん》状態を意味するのだ。
生理学を専攻する君に、こんなことを言うのは僭越だが、心臓の血圧の曲線を観察すると、かのトラウベ・ヘーリング氏の弛張《しちょう》がある。心臓は生れてから死ぬまで搏動を続けて居なければならぬから、一対ずつ存在して居る器官、例えば腎臓のように、一方の活動して居る間、他方が休むという訳にいかぬ。それで活動に弛張《しちょう》を来《きた》し、それが所謂《いわゆる》トラウベ・ヘーリング氏の弛張と名づけられて居るが、僕は精神的活動にも同様なことがあり得ると思うのだ。平凡な働きしか出来ぬ脳髄には弛張は目立たぬけれど、精神的活動がはげしければはげしいほど、緊張状態の後に来る弛緩状態が目立って来ると考えるのだ。僕は嘗《かつ》てこの見地のもとに、史上の俊才の伝記を研究したことがある。果して多くの俊才には、精神的活動期の中間に著しいギャップのあることがわかった。古来の伝記学者たちはそのギャップを色々に説明して居るが、要するに、それは生理的に、いわば自然に生ずるものであって、俊才自身が意識してそのギャップを作ったのではないのだ。そうしてその時期にめぐり合せた俊才たちは、きまって憂鬱になるのだ。著しかった精神活動の時期を回顧して、だん/\深い憂鬱に陥《お》ちこんで行くのだ。
時には肉体的の欠陥がこの弛緩状態を起すことがある。肺結核の初期には却って精神的活動を促すが、後にはやはり弛緩状態を起すらしい。慢性腎臓炎などは弛緩が著しい。そこで僕は先生が何か病気に罹《かゝ》られたのではないかとも思ったことがあるけれど、やはりそうではなく、俊才に生理的に起る憂鬱状態と見るのが至当だったのだ。
今になって見れば、もっと他の、学者としては最も当然な、且《か》つ最も高尚な悩みもあったのだが、それはむしろ原因ではなくて、単にその時期に併在《へいざい》したと見るのが至当であろう。いずれにしても、毛利先生は、先生自身でもどうにもならぬ、況《いわ》んや僕等の何とも仕ようもない憂鬱に陥ってしまわれたのである。
ところが、その憂鬱からはからずも脱し得られるような事情が起ったのだ。後から見ればそれが一時的のものであって、毛利先生はその後更にはげしい憂鬱に陥られたが、若し、先生の論敵で、先生と共に、日本精神病学界の双璧といわれて居る狩尾博士が脳溢血で頓死《とんし》されなかったら、あのまゝ従前の活動状態に復帰されたかも知れぬ。そうして、ことによったら、先生の死もこれほど早くには起らなかったかも知れぬ。が、今はもう悔んでも及ばな
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