。すると先生は、机の上にあった小さな紙片をとり上げて、
「之がその解決だよ」と言って渡された。見ると其処《そこ》には、
[#ここから3字下げ、罫囲み]
PMbtDK
[#ここで字下げ終わり]
と書かれてあった。
「君、甚《はなは》だ御苦労をかけるが、それを都下のおもだった新聞に、あまり目立たないように広告してくれたまえ」
僕は面喰った。
「これは暗号で御座いますか」
「理由《わけ》は君が帰ってから話す」
僕はそのまゝ黙って引きさがり、それから各新聞社をまわって広告を依頼し、教室へ帰ったのは午後一時ごろだった。道々僕は、先生の渡された暗号――無論僕ははじめそれを暗号だと思った――を、色々に考えて解こうとしたが、まるで雲をつかむようだった。又、何のために、先生が新聞などへ広告を出されるのか、そうして、これが一たい北沢事件と、どう関係があるのか、ちっともわからなかった。だから、教室へ帰ったときは、早く先生から説明がきゝたくて、僕はいわば好奇心そのものであった。
教授室に入ると、先生は立ち上って、入口の方へ歩いて行き、扉《ドア》の鍵孔に鍵を差しこんでまわされた。
「あまり大きな声で話してはならぬのだよ」こう言って再び机の前えに腰をおろし、「さて涌井君、君はニーチェを読んだことがあるか」と、だしぬけに質問された。
「はあ。以前に読んだことがありましたけれど……」と、僕がしどもどしながら答えると、先生は遮《さえぎ》って、
「無理もない。今どきニーチェなどを語るのは物笑いの種かも知れぬが、若《も》しそれが天才の仕事であるならば、たとい非人道的であっても、君は許す気にはならぬかね」
「さあ、そうですね……」
「いきなり、こう言っては君も返答に迷うであろうが、近頃はよく民衆の力ということが叫ばれて居るけれど、少くとも科学の領域に於ては、幾万の平凡人も、一人の天才に及ばぬことを君は認めるであろう」
「認めます」
「そうして、科学なるものが、人間の福利を増進するものである以上、科学的天才の仕事が非人道的であっても、君はそれを許す気にならないか」
誠に大問題である。
「もっとよく考えて見なくてはわかりませんが……」
「その肯定が出来なくては、君に先刻《さっき》の約束どおり、説明を行うことが出来ぬ」
それでは大変だ。是非、北沢事件の解決をきかねばならぬ。
「許してもよいような気がします」
「よし、そんなら説明に取りかゝろう」と、案外先生は楽に話しかけて下さった。「ゆうべ僕は、この二枚の紙片をにらんで、とうとう徹夜してしまった。だん/\推理を重ねていった後、比較的早く事件の底にかくされた秘密を知ったけれど、その確証をにぎるのに随分苦心した。
「僕は昨日君がかえってから、この二つの品即ち遺書と投書を、机の上にならべて、如何なる順序で研究すべきかを考えた。その結果、最初は先ず、心を白紙状態に還元して、果してこの二つの筆者が北沢その人であるかどうかを研究した。けれども、もはやそれには疑いの余地がなかった。いろ/\北沢の他の筆蹟とくらべて見たが、絶対に他の人であり得ないことがわかった。
「然らば、北沢は何故にかゝる計画を行ったか、何の目的でやったことかを次に研究した。これこそ謎の中心点で、すでに君と話し合っても見たが、遂に昨日は解決が出来なくて別れてしまった大問題だ。昨日も言ったとおり、遺書と投書と別々にしては、色々の目的が考えられるけれど、二つを合せるとたった一つの目的しか考えられなくなるのだ。従ってそのたった一つの目的をさがし出せば凡《すべ》ての事情が氷解するのだが、何がさて、たったこの二つきりの品によって解決しようとするのだから、なか/\困難だった。
「北沢が何人《だれ》に投書を依頼したかはわからぬが、とに角、投書は北沢の計画したとおりに投ぜられたにちがいない。ロマンチックな君は、きっと、北沢の投書の依頼を受けた人が誰であるかを知りたく思うであろう。その人を捜し出して、その人から北沢の真意をきゝ度《た》く思うであろう。無論あの投書が、偶然に無関係な人の手に入ったとは考えられないから、たしかに北沢に依頼された人がある筈だ。そうしてその人は、現にどこかで、警察や僕等の騒ぎを頬笑みながら覗《うかが》って居るにちがいない。それを思うと、君は腹立たしい気になるかも知れぬが、僕は然し、北沢が投書を依頼したという人には毫《すこし》も興味を感じなかったのだ。それよりも北沢の唯一《ゆいつ》の目的が知りたくてならなかった。
「而《しか》もその目的は、決して単なる人騒がせのためではない。何となれば、若し単なる人騒がせが目的だったら、もっと簡単な、そうしてもっと効果的な方法がある筈だ。だから北沢にはもっと厳粛な一つの目的があらねばならなかったのだ。
「ところが、そのよう
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